理想のセールス、それを探究。キャリアのすべてを、ここに捧げる

大手印刷機器メーカーの営業、コンサルティング会社を経て、2018年10月にPR Tableに入社した竹田 祥理。フィールドセールスとして最前線に立つ彼がこれまで歩んできた道のりには、さまざまな困難がありました。それらを乗り越え、「理想のセールス」の姿を探究する彼の内に秘めた熱い思いを紹介します。
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根っからの負けず嫌い。そのルーツはイジメで感じた屈辱

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▲空手の稽古で精進を重ねていった幼少期の竹田

熊本県熊本市で生まれた竹田ですが、小学校入学と時を同じくして両親の仕事の都合で沖縄へ移り住むことになりました。彼はその後、3年間の南国での生活を振り返り、最も印象的に思い出すことを「学校でのイジメ」だと話します。

竹田 「僕は、昔から肌が白くて線が細かったんです。沖縄は日差しが強いから、白い僕は目立ったんでしょうね。良い意味でも悪い意味でも、クラスの中で浮いた存在だったんだと思います。
まぁ女子からはチヤホヤされましたけど(笑)。同性は気にくわなかったようで、クラスの中で真っ先にイジメの対象になりました。学校からの帰り道、坂を歩いて下る僕にクラスメイトが坂の上から飛びかかってくるなんて日もあったり……」

学校ではイジメが続く日々に、当時の竹田は「負けるもんか」と奮起し、「強くなりたい」という一心で父親に空手を習いたいと志願しました。

いじめなんかに負けたくない、とにかくクラスの誰よりも強くなりたいーー。

そんな思いで稽古を重ね、日々の鍛錬を重ねていくことで精神的にも肉体的にも強くなっていった竹田。最初はイジメという敵に立ち向かい、やみくもに突き続けた拳も、いつしか友人と手を取り合うようになります。友人に抱いた敵対心からはじめた空手も「自分自身との戦い」へと変化していったのでした。

そうして空手の稽古で少しずつ友人を増やし、意気投合した友人から部活動に誘われ、バスケットボールをはじめました。それは、ちょうど竹田が小学校3年生になった頃でした。

学校が終わると夕方からバスケの練習、その後は同じ体育館で22時まで空手の稽古。自宅に帰っても、父が撮影した練習時のビデオを一緒に見ながら反省点を指摘され続けました。

小学生にしてそんなハードワークな生活でも精神的にも肉体的にも少しずつ強くなっていく瞬間が、心地よかったのです。

竹田 「空手の稽古とバスケの練習があった、火曜日と木曜日は地獄でしたね(笑)。
でも、練習はキツかったのですが、バスケも空手も練習すればするほど上達していくのが分かりましたし、昇段試験など目に見える形で成長を実感できるのが嬉しかったんです。『オレ、強くなってる』って」

小学校生活も後半に差し掛かった10歳にふたたび生まれ故郷の熊本に戻るも、竹田は変わらず空手とバスケに没頭する日々を過ごしました。そして中学入学を機に、バスケ一本に絞ることを決めます。

竹田 「バスケは小学校の頃から始めていましたし、レベルは他と比べても高かったと思います。でも、スキルが上達していくよりも何よりも嬉しかったのは仲間に恵まれたこと。沖縄ではイジメられた経験があったし、小学校4年生で沖縄から引っ越してきた僕は友達がいなかった。でも、ボールを持ってドリブルを始めれば、自然と友達が集まってくる……。仲間、友達の存在を感じさせてくれたのはバスケでしたね」

竹田は高校でもバスケを続け、県内屈指の強豪校へ入学。インターハイへの出場を果たします。順風満帆に見える輝かしいバスケ人生のようですが、最も印象的な思い出は「試合に負けたとき」のことでした。

竹田 「勝った試合であれば、活躍できても、何もできなくても多少の気持ち良さって残りますよね。でも、試合に“負けた時”は悔しさや歯がゆさしか残らない。負けたけど『いい試合だった』とか『よくやった』なんて絶対に言いたくない。負けたくないから、あんな辛い練習を9年間も続けてこれたんだと思います」

自分自身を「負けず嫌い」と表現する竹田のルーツは、空手の稽古やバスケの試合で培われた日々の反省・振り返りの積み重ねにあったのでした。

ゴールドコーストの眺めの良い部屋。そこで味わった最大の達成感

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▲ゴールドコーストで竹田が味わった“いい景色”

バスケに高校時代の全てをぶつけた竹田でしたが、卒業後は福岡県にあるビジネスカレッジに入学し、ビジネス英語を専門的に学ぶようになりました。

竹田 「高校時代は何よりバスケが生活の中心。勉強なんて、ほとんどしてこなかったんです。進路を考え始めた時に、たまたまテレビで俳優が英語を流暢に喋っているのを見て、かっこいいなって思ったんです。自分はこんな風に喋ることはできない。同じようになりたい!って……。今思うと、単純ですね(笑)」

英語を学ぶ学校に入ったはいいものの、英語習得は一筋縄にはいきません。そこで竹田は思い切った決断をします。それはオーストラリアへのワーキングホリデーでした。

竹田 「たった1年留学しても、スラング(俗語)だけを学んでくる程度ではダメ。よりビジネスや生活レベルに近い実践的な環境に身を置かないと、外国語の習得なんて簡単じゃないって思ったんです。だから、仕事をしながら英語を身につけることにしました。なんとなく、今後の武器になるって確信があったんです」

竹田はオーストラリアでコンビニの店員やホテルの清掃員のほか、受付、レストランのウェイターなど、日本人がワーホリで経験できる仕事を片っ端から手を出していきました。

その中でも、英語を使いながら物を売ることでビジネスを理解し、南国での生活を楽しむことができたのが、ワインの販売経験だったと話します。

竹田 「当時、オーストラリアではルームシェアをしながら過ごしていました。友人3〜4人でホテルを予約し1つの部屋をシェアする日々。稼げない時は小さなドミトリー、でも自分が稼げば、よりランクの高い部屋が借りることができました。
自分の稼ぎのステータスによって、泊まる部屋が変わっていくのは、プレッシャーもありましたが、成果をあげたときの快感はたまらないんですよね(笑)。
帰国直前にはゴールドコーストのホテル高層階に宿泊できるまで稼ぐことができて、オーストラリアでのワーホリ最大の達成感を感じることました」

片田舎のドミトリーから、都心部の高層階へ。眺望が様変わりしていくことを自分の成長実感として抱いたオーストラリア滞在は、どんな環境でも自らの力で成果を手にすることができるという自信に繋がる経験となりました。

そして、日本に帰国。オーストラリアで得たこの経験を生かすべく、外資系の印刷機器メーカーに営業として入社することを決めました。

営業成績最下位……。成功体験はクソほど役にも立たなかった

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▲見ての通り、調子に乗っていた新人時代

熊本、沖縄、福岡、そしてオーストラリア。海を超えて学生時代にさまざまな経験をしてきた竹田がビジネスの地として選んだのは「東京」でした。

これまでの学生時代の経験から、ビジネスの世界に飛び込んだ竹田が考えたこと。それはあの時のバスケと一緒でした。自分自身を鍛え上げ、成長を実感できる環境に身を置くこと。

竹田 「理想のビジネスマンを思い描いたときに、高校を卒業した頃から漠然と起業したいという気持ちは持っていました。親戚にも自営業の人が多くて、ビジネスで自立することが当たり前だと思っていたのかもしれません。
親戚や先輩などに話を聞くと、『まずは営業をやりなさい』って口を揃えてアドバイスしてくれたんです。営業マンとして顧客に対峙しつつも、自分を磨いていくことが必要だったんでしょうね。
商材はわかりやすい有形という点しかこだわりはなくて、せっかく身につけた英語を生かしながら営業できたらと思って外資系メーカーの営業職に決めました」

留学を経て外資系メーカーの営業マン。経歴だけを見れば華々しいビジネス人生の幕開けでした。しかし、竹田に突きつけられた壁はこれまで経験したことのないものでした。

同期60名中、最下位……。

入社1年目に残した成績は、ゴールドコーストの高層ビルで見た、きらびやかな景色とは真逆の世界でした。

「オーストラリアでワインを売ってきた経験がある。きっとまたできるはず」オーストラリアでの成功体験は“自信”という武器を竹田に与えました。しかし、逆にその体験が同時に“プライド”となり、顧客と対峙したときに足かせになっていたのでした。

竹田はその後、最下位という数字に向き合いはじめます。

竹田 「よく考えたら、オーストラリアでできたからって、日本で、しかも社会人1年目が同じようにできるはずなんてないんです。
プライドなんて捨てて、最下位という成績に真摯に向き合った方が成果は出る。先輩だろうが同期だろうが、関係なくて成果をあげてる人の方が偉いんです。成果が出ないなら出ている人のやり方を見て、学んで、盗んで、自分のものにしようと考えました。
最下位という数字だからこそ、今の自分を全部捨ててしまえ!って思いきれたのかもしれません。それに、僕は負けず嫌いですしね(笑)」

プライドを捨てるという行為は容易ではありません。でも、これまでの自分を否定してでも、成果を追い求める最短ルートは「プライドを捨てること」だと確信したのでした。そして、それは後の成績にも如実に現れてくることになったのです。

その後、最下位という結果から、プライドを捨て、同僚にも頭を下げながらノウハウを自分のものにしていった竹田。部門長と夜の街に繰り出しては、ビジネスにおける基礎を叩き込まれました。

竹田 「その時の上司に言われてハッとしたことがありました。最下位の時の僕は、自分が勝手に思い描いた営業スタイルを無理やり押し込んでいたんです。
理想と現実は違う。環境も商材も、オーストラリアとは何もかも違うのに、貫いたスタイルを無理に通そうなんて、うまくいくはずないんですよね。それに気づいて以降、徐々に成績が伸びていったので、そのときの上司には今も感謝しています」

その後、竹田は営業マンとしても着実に成果を出し続けていきました。そして入社から5年が経った頃、転職を決意します。

竹田 「印刷機器メーカーでの営業にひとつ区切りをつけて、次のステップに行こうと思いました。継続的に納得のいく成果を出せるようになっていましたし、もっともっと厳しくてシビれる場所に身を置きたいと思うようになったんです」

そうして竹田は転職先として独立系のコンサルティング会社へ入社することになりました。

孤独な環境でセールスとしての腕を磨き、Public Relations

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▲2019年現在の竹田

転職したコンサルティング会社は創業したばかりのスタートアップで、竹田はひとり目の社員、言うなれば社長の“右腕”として入社します。

と言っても、社長と直接会うのはいつもクライアント先での商談の場やカフェ。オフィスもなく自宅とレンタルスペースを使いながら孤独な作業を過ごすことになります。

竹田 「社長と2人だけの会社でしたが、社長と定例で会うのは月に1回。基本的に連絡はメールで進捗を共有する程度で、前職が大手企業だったせいか、転職してすぐの頃は、同僚がいないことの大きさを感じていました。
ひたすら、ひとりで電話をかけアポを取り続ける日々……。だからこそ、取引先の顧客は、顧客でありながらパートナーのような関係性になっていきました。ギブアンドテイクの関係というより、同じ目線で目標に向かっていく仲間。そんな印象ですね」

そうした環境でもコンサルティング会社での仕事を3年半続けた竹田は、前職での営業経験も生かしながら日々、着実に成果を積み上げていきました。

そして、30歳となった2018年。彼は二度目の転職を決意します。

竹田 「全グループを合わせると数万人単位で従業員のいる大手企業からスタートアップに転職し、社長と二人三脚で事業を大きくしようと頑張ってきました。顧客と同じ目線で同じゴールに向かってプロジェクトを進めていくことに新たなやりがいを感じていました。でもやっぱり、喜びや、うまくいかない悔しさを共有したり、切磋琢磨する仲間が欲しかった。
そして、セールスとしての新たなスキルが身についたという感覚もあったんです。だったら、同じセールスでも、新たな商材・分野でさらに自分を高めていける環境を探してみようと思ったんですよね」

2018年9月、転職活動をはじめ、まもなくしてPR Tableに出会います。

竹田 「経営陣をはじめ、社員と話すうちに高まっていく自分の高揚感が抑えきれませんでした。Public Relations(PR)というはじめての概念を通じて、目指すべき理想のセールスの姿を探究していける場所だと思えたんです。決まったものを決められた通りに売るのではなく、セールスとして、その企業にあったPRの形を『武器』として顧客にインストールしていきたい。これが僕の担う役割なんだ、って」

そうして2018年10月、竹田はセールスとして入社しました。

きっと、新たな顧客との接点を持ち続ける竹田の前には、またシビれるような壁が出てくるはず……。でも、一時的に立ち往生することになったとしても、竹田ならきっと乗り越えるはず。それは何より、彼のこれまでの人生が物語っています。

イジメという屈辱を味わい、空手やバスケで己を奮い立たせながらバネにしてきたこと。留学先で高みを目指しながら自分の限界に挑戦してきたこと。栄光から一転、最下位という営業成績からプライドを捨てて武器を磨き続けてきたこと。

すぐ出る成果ならいらないーー。彼が虎視眈々と狙うのはハイパージャンプ。絶対に諦めない気持ちを持ちながらも、セールスという仕事を楽しみ、目の前の壁を少しずつ砕きながら、活路を見出そうとする。

竹田は今日もまた、PR Tableメンバーの手によって顧客の元へと送り出されていきます。

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