時代の変化、幾度の事業転換……それでも70年の歴史と技術が“夢の寝具”を完成させた

医療用脱脂綿・ガーゼ・不織布、そして理想の寝具「パシーマ」など、時代の変化に応じて綿製品を開発してきた龍宮株式会社は、2017年に創業70周年を迎えました。その軌跡を辿るとともに、創業者・梯禮一郎の波乱万丈な人生、そして技術者として父・禮一郎を支え、現在は社長を務める梯恒三の想いをご覧ください。
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特殊紡績から脱脂綿の製造へ。時代に合わせて主力事業を変えていく

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移転直後の工場の様子

戦後、日本はあらゆるモノが不足していました。頑張って働こうにも働くための作業着がありません。なぜなら、衣類を作るための糸がないからです。

そこに着目したのが創業者である梯禮一郎(れいいちろう)です。戦前、父とともに「綿」の製造業を行っていた禮一郎のもとには「この綿から糸を作って欲しい」と古い布団が持ち込まれることも少なくなかったため、布団綿から糸を紡ぐ特殊紡績業をはじめたのでした。

禮一郎の読みは見事的中。特殊紡績事業は急成長を遂げましたが、戦後の色が薄まり世の中が安定するにつれ、特殊紡績は下降線をたどっていきます。しかし、このことを禮一郎は予測しており、長年の夢をカタチに移すことを決意します。

それは、脱脂綿の製造です。戦前、禮一郎の叔父は脱脂綿の工場を営んでおり、その工場で脱脂綿の素晴らしさを知った禮一郎は、いつか脱脂綿の製造に専念したいという想いを抱き続けていたのです。

特殊紡績として創業してから約10年後の昭和29(1954)年、浮羽郡吉井町(現・うきは市吉井町)への工場移転を機に、禮一郎は念願だった脱脂綿の製造へと舵を切りました。

綿と脱脂綿を二本柱に順調に売上を伸ばしていったものの、取り込み詐欺に遭ったり、取引先が倒産したりとさまざまな困難が禮一郎に襲いかかります。

しかし、生産設備にいくつもの工夫を行っていたため利益率が高かったこと、売上が急激に伸びていたこと、何より社員全員や家族の骨身を惜しまない強力があったことが幸いし、倒産することはありませんでした。

そして東京オリンピック(1964年)を契機に、日本の経済は本格的な高度成長期に突入。綿の世界でも合繊綿の需要が上昇し、洋布団、こたつ布団などが出回り、国民生活はより豊かになっていきました。そういった時代を背景に、新工場も建設しりゅうぐうわた株式会社(旧社名)の売上は順調に伸び続けていったのです。

ところが1966年12月27日、打綿工場が火災に遭い全焼してしまうことに。「こんなことに負けてたまるか」——禮一郎を筆頭に社員全員が正月返上で復旧に取り組んだ結果、驚くほどの短期間で復旧作業が終わり、火災から数日で操業を再開。以前にも増してレイアウトに工夫を施したことで、生産効率がグンと上がり、売上は前年比で約50%も伸びました。

「災い転じて福となす」という諺をまさに地でいったもの——禮一郎は当時のことを自著『「綿」にかけた男』にてこう記しています。その後も「不織布」の開発に取り組むなど、時代を先読みした新商品の研究・開発にも取り組み、設備を新しくしながら企業として着実な成長を遂げていきます。

「不織布」関連の新商品を出していくうちに「りゅうぐうわた」という社名がやや不自然になってきたと感じた禮一郎は、1972年9月、社名を「龍宮株式会社」に変更し、翌月には創業25周年の祝賀会を開催——。誰もが順風満帆だと感じていた矢先のことでした。龍宮株式会社と禮一郎に大きな困難が襲いかかるのです。

61歳からの再出発! 創業者・禮一郎の挑戦

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創業者である梯禮一郎

1974年12月、師走も押し迫った29日の夜のこと。禮一郎は会社の敷地内にある自宅で新聞を読みながら過ごしていましたが、突然、けたたましい非常ベルが鳴り響きました。

「火事だ!」

龍宮株式会社にとって二度目の火災。前年に最新鋭の機械を揃えたばかりだったため、被害は前回よりもはるかに甚大だったのです。

それでも一度目同様に社員一丸となり復旧に努め、翌年2月初旬には一部の操業を再開。今回も「やればできる!」と実感していた矢先、利益保険から保険金が下りないことが決定し、資金不足が深刻な状態になっていきます。

1977年2月には、創業以来初の給料遅配が起こってしまい、禮一郎は「倒産」を意識するようになります。そしてその年の3月、春休みで帰省していた三男・恒三(現社長)に、禮一郎は「大学を休学して会社を手伝ってほしい」と頼みました。

恒三 「父から『手伝ってほしい』と言われたときのことは、よく覚えています。私は三人兄弟の末っ子でわりかし甘やかされえて育ってきたと感じていて。『役にも立たないけど、父の言うことなら……』と素直に受け止めました。

後の父の著書に“三男は生まれる予定ではなかった”というようなことが書かれていたのを読んだことがあるのですが、そのとき父が生ませることを決意してくれて非常にありがたいことだなって常々思っています」

そんな想いもあって、恒三は1年間の休学届けを出し、家業を手伝うことになったのです。とはいえ、大学生だった彼にとっては全てが初めての経験。大学では機械を学んでいたこともあり、品質管理をすることになりましたが、それも最初からできるわけではありません。

恒三「今になってみれば、再建のときに“そばにいること”がお役目だったのかなと思いますね」

特殊紡績、布団綿、脱脂綿、不織布、布団——その後の龍宮株式会社のモノづくりは、時代の変遷とともに常に変化を続けてきました。不渡りを出してしまったものの、取引先をはじめ多くの人々に支えられ、「再建」の道を歩みはじめることになります。

恒三 「父は61歳で不渡りを出し、そこから再スタートを切りました。私は今、当時の父とほぼ同年齢の60歳(※2017年現在)になりましたが、自分の周りはもうすぐ定年という話をしているのを見聞きすると、その年から再建に向けて歩き出したことは、本当にすごいことで尊敬しています。

父は97歳まで頑張ってくれましたが、私がこれから20年、30年やれるかどうか、正直わかりません。けれど、できる限り、父と同じように頑張り続けられたらいいなと思っています」

60歳を過ぎていた禮一郎は、さまざまなストレスが原因でアトピー性皮膚炎、アレルギーに悩まされるように。

人づてにいい病院を聞いては、遠方にも赴き薬を処方してもらうーー。それを繰り返しても、禮一郎の症状は軽くなることはありませんした。そして彼は、薬に頼ることをやめ、さまざまな健康法を試しては、効果のあるものだけを日々の暮らしに取り組んでいったのです。

「自分の健康は自分で守る、むしろ自分で作り出していかなければならない」。やがて、そう考えるようになった禮一郎は、自身の研究分野である寝具の開発を通して、その想いを実現していくことになります。

10歳で脱脂綿の素晴らしさに触れた禮一郎は「脱脂綿で寝具を」という長年の夢をカタチにしていこうと思い立ち、「パシーマ」の開発をスタート。

大学で機械のことを学んでいた恒三は、工場における生産・品質などの管理を任されました。禮一郎の思いつきやアイデアを技術者としてカタチにしていくのが自分の役目——。恒三はその矜持を抱き、さまざまな試行錯誤を重ねながら10年以上の歳月をかけて、ついに夢の寝具・パシーマを誕生させることになるのです。

10年以上の歳月を経て、夢の寝具「パシーマ」が誕生

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「パシーマ」はパットにも、シーツにも、マットにも使える寝具が名前の由来

皮膚のみならず、傷口にも直接触れる脱脂綿やガーゼをどう寝具に生かせるのか——寝ても覚めてもそればかり考えていた禮一郎。試験や実験を行っては試作品を作るということを繰り返します。

そして、ようやく完成したパシーマは、1992年に正式販売スタート。翌1993年には「第45回福岡県発明考案審査会」にて特賞を受賞することに。

ちなみにパシーマという名称は、「パット」「シーツ」「マット」の言葉を短縮したもの。タオルケット、シーツ、肌ふとんなど、さまざまな用途で使うことができることから、そう命名されたのです。

当時は「布団綿」「脱脂綿」「固綿」を三本柱として綿の製造を行っていた株式会社の中で、「その他」の分類のパシーマは少しずつ生産量を増やし、2017年4月現在では全体の90%を占めるまでになっています。

このようなベストセラーになるまでにはいくつかの転機がありましたが、ひとつの転機となったのは、禮一郎がパシーマ誕生と同じ年に刊行された『清貧の思想』(草思社)を読んだこと。

バブルを謳歌した日本人の発想の転換を求めたベストセラーですが、ここに書かれた思想こそ、何度も繰り返し洗って使えるパシーマにぴったりだと考えた禮一郎は「『清貧の思想』をカタチにしたら、このようなことになりませんか?」と、パシーマを著者であるドイツ文学科の中野孝次氏に送ったのです。

事前に手紙を送っていたことが功を奏し、中野氏はパシーマを実際に使用し、大いに気に入ってくださいました。そして、パシーマのことを月刊誌や新聞のエッセイに書いてくださったことで、パシーマがたくさんの人々に知られることになったのです。

恒三「物ごとというのは連鎖的に起こるものなんですね。中野先生のエッセイがきっかけで、東京の百貨店『伊勢丹』が取り扱ってくださったり、シニア向けの雑誌「いきいき」(現:ハルメク)に掲載していただいたり……。

なかでも、とくに嬉しかったのは、実際に使った上で『掲載したい』と言ってくださったバイヤーや編集者が多かったこと。本当にいいモノであるという実感を持った方が消費者とのつなぎ役になってくださったことで、より伝わりやすかったのではないかと思います」

その後、パシーマは「第45回福岡産業デザイン賞奨励賞」「科学技術長官賞」「第9回キッズデザイン賞」「第6回ものづくり日本大賞九州経済産業局長賞」「第3回健康科学ビジネスベストセレクションズ大賞」など数々の賞を受賞。

2016年には「パシーマ®のバスタオル」が クールジャパン事業の「The Wonder 500」に認定されるなど、徐々に社会から認められるようになっていったのです。

技術と歴史を残すため——機能性にデザイン性をプラスして付加価値を高める

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会社で一番機械に詳しい3代目

2013年、うきは市に現工場ができて50周年を迎えることを機に、龍宮株式会社では、うきは市の新生児全員に「パシーマ」のプレゼントをスタートさせました。

恒三 「うきは市にきて50年(※当時)。倒産の危機も地域の皆さんに助けてもらって、父もいつかは恩返ししたいという気持ちを持っていたと思います。私自身も、うきは市の赤ちゃんがパシーマで健やかに育ってほしいと願って、この企画をはじめることにしました」

地域に根付いた活動をする一方で、私たちは将来的に日本国民の1%が「パシーマ」を使ってほしいという想いを抱いています。

恒三 「計算してみたら、今(2017年)の5倍は作らないといけないみたいです(笑)。全国誌で紹介していただいたり、全国の百貨店で取り扱っていただいたり、たくさんの賞をいただきもしましたが、世の中にはパシーマのことを知らない人がたくさんいます。伸び代はまだまだあるってことですね」

とはいえ、私たちは急激な増強を行うことは考えていません。たとえば現在の2倍増産しようとすると、2倍の人員が必要になります。2倍の人材を雇い続けるためには、何が何でもその量を売り続けなければならなくなり、安売りなどしてしまうことは本末転倒。大切なのは「適正規模」で成長し続けることです。

恒三 「類似品も出てきてはいますが、それらの類似品より価格が高かったとしてもパシーマを欲しいと言っていただけるようなブランドづくりを続けていきたいですね。それだけ価値のある商品だという自負はありますし、価値が認め続けられれば従業員にもきちんとお給料を払い続けることができますから」

私たちは、これまで機能性が評価されてきた「パシーマ」にデザイン性を加えることで付加価値を高める取り組みをはじめています。2017年4月1日には和の色を纏った「The Japasima colors」パシーマ®Jカラーシリーズの販売をスタート。早くもたくさんの注文が入っており、滑り出しは順調です。

恒三 「現在、当社の主力商品はパシーマですが、これまで私たちはその時代に応じた商品の開発に取り組み、主力事業を変化させてきました。創業者・禮一郎の綿に対する想いを伝承していくためにも、今後はパシーマに続く新製品の開発にも果敢に挑み続けていきます」

すべては、創業当初から伝承される脱脂綿の技術と、70年の歴史を後世に残すため——私たちは、時代の流れに遅れることなく、さらなる進化と挑戦を続けていきます。

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