車いすでアメリカ留学!「生きる」ことを伝えたい

筋ジストロフィーという難病で身体は不自由ながらも、心は自由にアメリカを目指した青年がいました。その人の名は平野誠樹(ひらの・もとき)さん。のちに電動車いすサッカーを通じて日本と世界を結びつけた平野さんの世界への第一歩は、ヒューマン国際大学機構(HIUC)との出会いでした。
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アメリカに行きたい!車いす青年の決意

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▲平野誠樹さん。自由の国アメリカに留学を果たした

1982年、3歳の時に筋ジストロフィーを発症し、中学生の頃から車いす生活を続けていた平野さん。「車いす=障がい者」という、ある意味“特別な”存在として見られることの多い日本の社会に閉塞感を感じていたといいます。

平野さん 「高校卒業後、一度はスポーツジャーナリストを目指し、専門学校へ問い合わせました。でも、エレベーターがないからとか、障がいを理由に断られたんです」

そこで、高校時代に短期留学で訪れたアメリカを思い出しました。

平野さん 「アメリカではバリアフリーが当たり前でした。日本にいたら自分の個性は活かせない。日本を抜け出していっそアメリカに行きたい、行こうと思い立ったんです」

そんな折、自宅に偶然1本の電話がかかってきます。それが、ヒューマン国際大学機構(HIUC)からの電話でした。

ヒューマンアカデミーが運営するHIUCは、海外留学をサポートする機関として1990年に開校。2018年6月現在、4800名以上の留学生を輩出しています。海外留学経験のある職員や教師が多く、平野さんが通っていた当時は、カリフォルニア州サンディエゴ出身のアメリカ人校長の下、障がい者に対する理解もありました。

平野さん 「ただ、入学にはひとつの条件がありました。それが “ひとりで通学できること ”だったんです」

他の学校では、「家族と一緒に来てもらえる?」と言われることが多かったそうです。しかし、「ひとりで来てほしい」、この言葉が平野さんの闘志に火をつけました。

平野さん 「アメリカにどうしても留学したい、という想いで『明日にでもすぐ行きます』と返事をしていました。 満員電車に揺られ、渋谷駅の乗り換えも駅員さんの力を借りて通いました。今、満員電車に乗れといわれたら正直できないと思う。ただ、その時は留学という目標に向かってすごいパワーが出ていましたね」

留学先が決まるまで、HIUCに1年半ほど通った1999年11月。ついに留学先が決まります。行先はアメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ。平野さんの20歳の誕生日の1カ月前のことでした。

電動車いすサッカーがつないだ国際的な絆

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▲電動車いすサッカーがつないだ縁。アメリカで加入したチーム「ハイボルテージ」のメンバーと

平野さんが電動車いすサッカーをはじめたのは、実はアメリカ留学前、17歳の時でした。留学後はプレーできなくなると思っていましたが、偶然にも、サンディエゴにも電動車いすサッカーのチームがありました。

平野さん 「最初はそのスピードに驚きました。日本では法令の関係で時速 6キロまでのスピード制限がありましたが、アメリカは制限なし。いい意味でクレイジーだと感じました」

スピード制限がないスリルがたまらないと、どっぷりはまり、2000年9月、サンディエゴのチーム「ハイボルテージ」に正式に加入します。すると、平野さんはそこでも実力を発揮。チームメイトから一目置かれる存在となりました。

平野さん 「チームメイトから、どうしてそんなに強いのかと聞かれました。日本でもプレーしていたし、日本にも強いチームがあると話すと、じゃあ日本のチームをアメリカの大会に招待しようということになって、とんとん拍子で話が進んだんです」

平野さんが日本でプレーしていた時、ライバルチームだったFINEの高橋弘氏にさっそく連絡を取ると、ぜひ行きたいと返事がきました。そして、2001年に開かれた全米選手権に日本チームの参加が決定。なんと、その大会で日本チームが優勝してしまいます。

平野さん 「僕はハイボルテージの一員としてプレーをしていたので悔しくもありましたが、嬉しくもありましたね。日本チームにはスピードに頼らない技術がありました」

この時、平野さんは、電動車椅子サッカーで世界をつなげる可能性を感じていました。

帰国、そしてチーム監督に

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▲電動車椅子サッカー「横浜クラッカーズ」の監督として指導する平野さん

2002年12月、留学生活を終え日本に帰国した平野さんは、電動車いすサッカーを通じて世界と日本をつなげる活動にまい進します。

2004年6月には、アメリカ・インディアナ州のインディアナポリスで開かれた国際大会で日本チームの選手として渡米し、優勝。2005年から2007年にかけては、国際委員会準備委員として、国際的なルールづくりに奔走しました。

平野さん 「アメリカで国際的なつながりが持てたことで、自分の役割が見いだせたんです」

2007年10月には、念願だった電動車いすサッカーの第1回ワールドカップを東京で開催するに至ります。

平野さん 「できることはやりました。残念ながら、体調不良もあり日本代表選手としてプレーすることはできませんでしたが、悔いはないですね」

一方で、日本に帰国後は「横浜クラッカーズ」に所属し、選手としても活躍しました。2008年には監督に就任。以来、選手たちを鼓舞し続けています。

平野さん 「やるからには上を目指したい。 1%の可能性がある限りは、そこを目指さなければだめだと思うんです」

チームは2017年、2013年以来4年ぶりに全日本選手権で優勝しました。苦しみながらも大会MVPの活躍をしたチームメンバーをはじめ、全員に直接、言葉で謝意を伝えます。

平野さん 「結果は周りの人のサポートのおかげだと思う。思いは絶対に伝えなくてはいけないし、忘れてはいけないですから」

“生きる”ことは、当たり前でないことを伝えるために

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▲日本電動車椅子サッカー協会からのドリームマスター(伝道師)認定証

平野さんには、試合前に必ず行なう儀式があります。それは、車いすの背もたれを倒し、天井を見上げること。

平野さん 「病気などが原因で、ここに来るまでに亡くなってしまった方がいる。その人たちの顔を一人ひとり、ゆっくり思い浮かべます。今の自分たちがサッカーをできるのも、先人の頑張りであることを忘れてはいけないし、人生に関わったすべての人たちに感謝の気持ちを持って試合に臨みたい。そうでないと勝っても筋が通らないと思う」

平野さんは2017年、一般社団法人日本電動車椅子サッカー協会(JPFA)からこれまでの功績が讃えられ、ドリームマスター(伝道師)に選ばれました。

平野さん 「普通に明日があると思って生きていない。 “生きる ”ということは当たり前でないことを伝えることが、ひとつの役割だと思っています。私の話で、なるほどと思ってもらったり、勉強になったり、『こんなクレイジーな人がいたんだ』でもいいので、何かを伝えていきたい。かけらでもいいから、伝えることでこの社会に残っていくものだと思うんです」

あの時、HIUCに通っていなかったら、アメリカに留学していなかったら、そして電動車いすサッカーに出会っていなかったら――。

平野さん 「そう思うと、正直ぞっとします。ただただ、いい人生を送ってきたと単純には思っていませんが、自分がやってきたことは何も後悔していない」

夢を見つけて、限界まで頑張った経験があるからこそ、夢がこぼれてもその過程が次の目標につながります。

「生きる」
シンプルながら、このメッセージに込められた想いは伝わると信じています。

※平野さんのホームページ「Motoki Official Site」はこちら
※平野さんの所属する「横浜クラッカーズ」のホームページはこちら

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