PR黎明期に現れた“戦略家”――パブリック・リレーションズと共に歩んだ半世紀(前編)

「パブリック・リレーションズ(PR)」は、企業にとって重要な経営資源である――株式会社井之上パブリックリレーションズでは、1970年の創業以来、あらゆる企業とステーク・ホルダーとの関係構築を支援し続けています。創業社長である井之上喬は、日本におけるPR黎明期から、自ら信じる道を切り拓いてきました。
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企業にとっての「パブリック・リレーションズ」とは?

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▲忙中の閑に子どもたちと過ごす井之上(1972年:軽井沢)

私たち人間は誰しも、相互に関わり合いながら生きています。他者との関係によって、自分が創られるといっても過言ではないでしょう。そしてそれはもちろん、個人に限ったことではありません。企業や団体など、個人が集って形成される「組織体」にも当てはまります。

それぞれの組織体が、他者との関係――すなわち、広く社会との関係を良好に築いていくために、不可欠な活動。それが「パブリック・リレーションズ(PR)」です。

株式会社井之上パブリックリレーションズ(以下、井之上PR)では、1970年の創業以来、この道を50年近く(※2017年現在)にわたって追求し続けてきました。

パブリック・リレーションズの概念は20世紀初頭からアメリカで発展し、時代とともに進化してきました。日本における “PR”は、現在でも「プロモーション」「パブリシティ」など狭義の意味で使われることが多いのですが、本質的にはもっと幅広く、俯瞰的なものです。

現在、当社では、それを「個人や組織体が最短距離で目標や目的を達成する、『倫理観』に支えられた『双方向性コミュニケーション』と『自己修正』をベースとした関係構築活動」と定義しています。

しかしこうした考え方が、創業時からすべて整っていたわけではありません。それらは約50年に及ぶ歴史の中で、一つひとつ着実に形づくられてきたのです。

井之上PRが誕生したのは、1970年のこと。弱冠25歳でひとり会社を立ち上げたのは、創業社長であり、現 代表取締役会長兼CEOの井之上喬でした。

そもそものはじまりは1960年代後半、井之上の大学時代にまでさかのぼります。長い歴史が、そこから幕を開けようとしていました。

入社3か月半で独立、「企画会社」としてスタート

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▲「井之上アートプロダクツ」創業期にオフィス(6階)のあった原宿ニューロイヤルビル

大学時代の井之上が夢中になっていたのは、バンド活動。ちょうどハワイアンミュージックが一世を風靡しており、大勢の仲間と音楽づけの日々を過ごしていたのです。

そんな井之上がはじめに考えた就職先は、当時、カリスマ経営者(川上源一)のもとで飛ぶ鳥を落とす勢いのあった世界最大の楽器メーカー日本楽器製造株式会社(現:ヤマハ株式会社)でした。

しかし、運命とは本当に不思議なものです。入社からわずか数か月後、社会人1年目で張り切り過ぎて体調を崩してしまい、抱えていた病気が再発。井之上は3か月半でヤマハを去ることに……。それが、井之上の独立を早めるひとつのきっかけになったのです。

井之上 「実は入社する前から、迷いがありました。アレをやれ、コレはダメ……と会社から言われるのはたまらないと思い、心のどこかで独り立ちしたいと考えていたと思います。学生結婚した妻も私の背中を押してくれました」

1968年、ヤマハを退職して2か月ほど療養した後、井之上は個人で同社から仕事を受けるようになります。

井之上は大学時代、バンドのプレイング・マネージャーとして、演奏旅行やイベント出演などさまざまな活動を取り仕切っていました。その経験を買われ、イベント企画のプロデュースや音楽教室の事業企画、業界動向の調査業務などを任されるようになったのです。

そして1970年、いよいよ法人登記――。

おりしも日本では、官公庁や大企業を中心としたPR活動が盛んに行われるようになっていました。それに伴い、多数のPR会社が次々と生まれていた時代です。

ただ、日本に浸透しはじめていた“PR”は、販促やパブリシティ(宣伝)など、マーケティング的な意味合いが強いもの。井之上は、決してそうした活動をするための「PR会社」を作ろうとしたわけではありませんでした。

井之上 「当初は、企画をやりたいという気持ちが強く、起業しました。当時、友人の紹介であるデザインスクールの先生に自分の仕事内容を伝え、アドバイスしてもらった社名が『井之上アートプロダクツ』。その頃はまだ、企画・制作プロダクション的な仕事が中心となっていました」

誕生したばかりの「井之上アートプロダクツ」。しかし会社を立ち上げた直後、井之上自身にとって大きな転機となる依頼が舞い込んできたのです。

「二度とこんな思いはしたくない!」大成功を収めたパブリシティの裏で

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▲1971年8月、井之上がはじめてパブリシティを手がけた「箱根アフロディーテ」のパンフレット

みなさんは、1969年にアメリカで開催された伝説のロックフェスティバルをご存知でしょうか。「ウッドストックフェスティバル」――およそ40万人が集ったといわれ、音楽史上に残る野外ライブです。

これを日本でもぜひ開催しようと、あるラジオ局が1971年に野外音楽フェスを企画します。そのイベントの名は「箱根アフロディーテ」。井之上は知り合いを介し、そのときはじめてパブリシティの仕事を任されることになったのです。

課されたミッションは、2万5,000人の集客のためメディアキャンペーン。独立間もない井之上にとっては、途方もない数字でした。

そこで彼は、この野外フェスをメディアに売り込む方法を、多方面から考えはじめます。

まず井之上が目をつけたのは、当時ブームになっていた野外音楽フェスそのもの。その年の夏は、「箱根アフロディーテ」以外にも3つのイベントが開催される予定でした。それらをパッケージングして、「今夏の4大サマーフェスティバル」として宣伝することにしたのです。

そのパッケージを引っさげ、井之上はメディアを片っ端から訪問。その数は、ほとんどの関係メディアをカバーし、108か所にも及びました。

結果的に、この「箱根アフロディーテ」(1971年8月)は、なんと2日間で目標を大幅に上回る約4万人の観客を動員。井之上アートプロダクツの仕事としては、大成功を収めた……はずでした。

しかし若き日の井之上にとって、この経験は心の奥に苦いものを残すことになったのです。パブリシティのためとはいえ、メディアに頭を下げて回り、ときに無下な対応をされたり、一方的に断られたり……。

井之上 「とにかく若い経営者にとってすごくプレッシャーを感じましたね。不合理なことも多くあって、なぜ自分たちがこんなに疎んじられなければいけないのかと。二度とこんな思いはしたくない。そう強く感じていました」

自分たちとメディアとの間に、対等な関係を構築するためにはどうしたらよいか。いわゆる「メディアリレーションズ」について、井之上は真剣に考えはじめるようになります。

そこで井之上が出した結論は、「自ら媒体になろう!」というものでした。メディアに対して宣伝を依頼するのではなく、自らメディアの目線で情報発信力をもつことで、依頼される仕事のパブリシティ効果を高めようとしたのです。

自分たちの仕事は“戦略家”――パブリック・リレーションズの会社へ

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▲写真左:1978年4月に発刊された「三菱電機の企業紹介本」(読売新聞社)当初同社は通常の社史制作を計画していたが、PRツールとなるような書籍にしたらどうか、という当社の提案を受けて上梓した。著者は読売新聞経済部デスクの佐藤公偉氏。 /写真右:ムック本(オーディオカタログ:Dig Up Your Sounds) 1970年代後半のムック本ブームの先駆けとなった読売新聞社から1976年に第2作目として発刊された。また、表紙はそのままアートポスター(B1版)として販売された。

「自ら媒体になる」と決意した井之上は、1970年半ばから後半にかけて活字媒体での編集機能と電波媒体での番組制作のふたつの機能を併せもつことを考え、実行に移しました。

編集機能では、大手の出版社と組み、自社が外部編集プロダクションとなるため「井之上アートプロダクツ」の中に編集部門を創設。もう一方は、ラジオ・テレビの電波機能をもつための請負の番組制作会社PMC(パシフィックミュージックコーポレーション)を子会社として立ち上げました。

中でもPMCが企画制作したラジオ番組は、当時ラジオ局最大規模で、大手国内自動車メーカーがスポンサーとなり年4回取材チームをアメリカに派遣。番組名は、車で現地FMステーションを巡りアメリカの若者文化を紹介する「アメリカ音楽地図」(FM東京)で、12年間の長きに渡って手がけることになりました。

さまざまな大手企業から依頼を受け、企業紹介本やムック本、雑誌の企画・編集を手がけたり、製品カタログ、広告などの扱いや制作事業イベントの企画・製作、そしてTVの音楽番組やラジオ番組を作ったり……。いつしかスタッフも、30名近くになっていました。

とにかく多種多様な業務を引き受けているうち、井之上アートプロダクツは世間から「広告代理店」だと認識されるようになっていきます。

しかし井之上は、それらに対して強烈な違和感を覚えていました。自社があるラジオ局の「広告代理店BEST7」に選出されたのを見て、「二度と広告はやらない」と誓ったほどです。

そんな井之上の違和感に、ようやく明快な解を与えてくれたのは、義兄からのひとことでした。自分たちの仕事についてぽつぽつと話をしていると、彼が何気なくつぶやいたのです。

「君の仕事は、参謀のようだね」――。

海軍軍人を叔父にもつ義兄の言葉には説得力があり、井之上の中にはじめてすとん、と落ちました。

井之上 「参謀、すなわちそれは“戦略家(ストラテジスト)”であるということです。そこではじめて、私たちがやっていることやりたいことは広告業ではない。企業戦略としてのPRなのだ、と明確に認識することができました」

それは、当時の日本で浸透しつつあったマーケティング的な“PR”ではなく、本来の「パブリック・リレーションズ」のあり方に近いものでした。

そこで井之上は1982年1月以降、志を明確に表すため社名を「井之上アートプロダクツ」から現在の「井之上パブリックリレーションズ」へと新たにしたのです。1981年に通産省(当時)主導の大型衛星通信プロジェクトに関わったことが契機となりました。

紆余曲折を経てさまざまな回り道をしながらも、パブリック・リレーションズ(PR)分野において自ら信じる役割をあらゆる形で体現し続けてきた井之上は、1980年代以降、“戦略家”としてさらに大きな舞台に挑むことになるのです――。

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