「世界的企業」との邂逅――パブリック・リレーションズと共に歩んだ半世紀(中編)

1970年代後半から80年代にかけて、株式会社井之上パブリックリレーションズは、戦略的PRの基本的なモデルプランを確立していきました。 そのきっかけとなったのは、世界的企業となったシリコンバレーのベンチャーとの出会い。創業社長の井之上喬は、“戦略家”としての役割を、実直に果たしていったのです。
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世界的な大手企業の日本進出が、会社としての大きなターニングポイントに

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▲インテルコーポレーションのロバート・ノイス会長が訪日した際に井之上PRが催した記者会見の資料(1978年10月)。この記者会見が翌年1月からのインテルジャパンのPRコンサル契約につながった。

“戦略家”として、企業や組織のPR活動に貢献していく――1970年の創業から10年。株式会社井之上パブリックリレーションズ(以下、井之上PR)の創業者、井之上喬は、自分たちの仕事を戦略性をもった「パブリック・リレーションズ」であると認識するようになっていました。

この時期、井之上PRは国内外の大手クライアントから仕事を受け、企業として着実に実績を積み重ねていました。そして1979年、非常に大きなターニングポイントをもたらす企業と出会うことになります。

その頃、井之上PRのクライアントのひとつだったのが、米・インテル社(Intel Corporation)。いわずと知れた、シリコンバレーを拠点とする世界的な半導体メーカーです。井之上はあるとき、同社の会長であったロバート・ノイス氏(当時)から、アメリカのとあるPR会社を紹介されました。

井之上 「水鳥のいる小さな湖のほとりに、ものすごく洒落たオフィスがあってね。社員が生き生きと仕事をしていました。そこを訪れるたびに感動していた記憶があります。 現在の井之上PRのオフィス環境は、実は彼らから影響を受けたものなんですよ(笑)」

当時英語が堪能とは言い難かった井之上は、はじめて出会った瞬間から40分間、とにかく相手に質問をさせないようにしゃべり倒しました。自分たちの会社は日本でこういうことができる、こういうサポートもできる、日本の特殊性はこうだ、アメリカとの違いはこうだ……。

そんな井之上の前のめりな姿勢が通じたのか、何度かやり取りを繰り返しているうちに、双方に信頼関係が生まれはじめました。そのつながりがきっかけとなり、井之上PRはある企業の日本進出案件を手がけることになるのです。

その企業とは、米・Apple社。

今でこそ、時価総額7,536ドル(約80兆円)で世界一、2,156億ドル超の売上高を誇る企業として知られていますが、当時の売上高は1億ドルほど。Appleはシリコンバレーの中でも、ごく小さな企業のひとつにすぎませんでした。

しかし井之上は、Appleが秘めている可能性と、その勢いを肌で感じていました。

井之上 「当時のAppleは今までにない全く新しいコンセプトのもと、パーソナルコンピュータの開発に取り組んでいました。本社を訪ねるたびに、オフィスが拡充されたり、社員が増えたり……と、急速に成長しているのがわかったんです。ビジネスをするうえで、自分たちの価値観を貫いているのも印象的でしたね」

こうして井之上PRは、1980年から7年間にわたり、「Appleを日本に認知させる」という大仕事に携わることになったのです。

海外の専門家によって確かに裏付けられた、会社として果たしてきた役割

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▲当時オフィスのあった「松岡九段ビル」(東京都千代田区九段上)社長室にて

当然ながらAppleの案件でも、井之上はメディアへのパブリシティ(宣伝)などだけを担当する気はありませんでした。メディアリレーションズの構築からマーケティング的な側面、さらにあらゆるステークホルダーにいかに影響を与えていくかということまで、すべてトータルで検討していたのです。

井之上 「今でいう『リレーションシップ・マネジメント』の走りですよね。当時はそこまで明確な認識は持っていませんでしたけど。とにかく戦略的に、必要なことはすべて自分たちがやるつもりで動きはじめました」

そしてそんな井之上に、自分たちの手法にまぎれもない確信をもつ瞬間が訪れます。1981年にはじめて参加した、国際PR協会(IPRA)の会合の席でのこと。そこで彼が触れたのは、日本社会で認識されている“PR”とはまったく別の世界だったのです。

日本では1950年代以降、大量生産・大量消費の時代に突入したため、PRの役割は「いかに多くの人に消費してもらうか」を目的としたマーケティングやパブリシティであると捉えられるようになっていました。

しかしパブリック・リレーションズの基本は、設定された目的を達成するために、いかに組織が「社会との良好な関係」を構築するかを考えるところからはじまります。それはずっと、井之上PRが会社として追求し続けていたことでもありました。

同協会に参加していた学者たちと話すうち、井之上は、自分たちの会社が取り組んできた仕事の一つひとつが、「パブリック・リレーションズ」を体現していたことを確信するようになります。

井之上 「自分たちが果たしてきた役割が、専門の学者が話す理論によって裏付けられていったんです。そこで改めて、パブリック・リレーションズの基本的な考え方と、本質的な意義について理解を深めることができました」

井之上は確かな手応えを得て、AppleのPR案件に取り組んでいきました。

「ただ商品を売るのが仕事ではない、企業の成功が自分たちの価値になる」

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▲写真左:Macのマニュアルで、日本市場においてパーソナルコンピュータ(PC)に関する用語や表現の規範ともなった。/写真右:国内初となるMacのPR、販促ツール(ポスター)。

Apple本社からの信頼が高まり、1982年、井之上PRの一室にApple日本法人設立準備オフィスが設置されます。そして翌83年5月には、アップルジャパンが設立されました。さらにその翌年、Macが日本市場にローンチすることになります。

1984年1月、Appleは、新商品であるパーソナルコンピュータ「マッキントッシュ(Mac)」を世界に先駆けて国内発表しました。それははじめてワンボタン式のマウスが装備された、非常に革新的な商品でした。

しかし日本ではまだ、コンピュータが「電子計算機」と呼ばれていた時代。そのうえApple自体の知名度もまだまだ低い状態から、PR活動がはじまったのです。

日本市場でMacを広めていくために、井之上PRが負っていたミッションは3つ。ひとつは、Appleが「革新者」であると印象づけること。もうひとつは、多くの人たちにMacの存在と機能性を理解してもらうこと。そして最後が、Appleの掲げる製品コンセプトを日本にも浸透させること――。

井之上 「当時の日本は、まだまだ手書き文化が主だったんです。そこに、キーボードやマウスを使うカルチャーを根付かせなければいけない。またそれだけではなく、Appleを魅力的と感じるファンを増やさなければいけないとも思っていました」

井之上PRは、まずMacマニュアルの翻訳をはじめ、印象的なポスターや業界誌での広告、ラジオCMによる宣伝活動、メディアの記者に向けたキーボードやマウス操作のワークショップ開催、商品自体を一定期間貸与するプログラムの実施など、総合的に商品自体の認知を高める活動を展開。

加えて、アメリカからの輸入を円滑に進めるべく、通産省(現在の経済産業省)をはじめとした政府との交渉がスムーズに進むよう、情報の提供・公開なども順次行っていきました。

さらに、Appleの「パーソナルコンピュータは個人の能力や創造性を拡大するツールである」という製品コンセプトを浸透させるための施策も実施。ソフトウェア会社と組んで、魅力的なグラフィックソフトやゲームなど、家庭で楽しめる日本語のソフト開発を促すなど、多角的な戦略にもとづいたPR活動を行っていったのです。

こうした一つひとつの活動がしっかり機能し、このApple案件で、井之上PRは想像以上の成果を上げることに成功。

井之上 「私たちはものを売るためにPRをするんじゃない。企業が本当の意味で成功するために仕事するんです。クライアントの成功があって、はじめて私たちの価値が生まれると考えています」

井之上はこの案件の成功を受けて、担当した社員で都立立川高校では一年後輩だった皆見剛(現取締役)とふたり、盛大に祝杯を上げたのでした。

色あせないビジネスモデル確立の裏で、生まれていた組織としての課題

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▲アップルジャパン設立の記者会見案内状

Appleの事例を通して、井之上PRはパブリック・リレーションズの基本的なモデルプランを確立することができました。それは35年以上が経過した今でも色あせず、活用することができる普遍的な手法です。現在のインターネット時代との違いは、SNSの有無程度にすぎません。

さらにこの仕事以降、井之上PRは海外企業との取引に注力するようになっていきます。狭い目線で自分たちの利益を追求するのではなく、世界の市場を一元化して考え、ビジネスを展開していく――井之上は、そんな企業姿勢に感銘を受けたのです。

さらに80年代半ば、井之上自身がカトリックの洗礼を受け、そもそもの欧米のカルチャーに対する共感が高まったことも要因のひとつでした。

井之上 「Appleのように、イノベーティブなことにチャレンジしている会社と仕事をしたいと思っていたんです。おもしろそうな化学反応を起こせるか、新しい市場を生み出していく会社なのか――そんな基準で、仕事を受けるかどうか判断していましたね」

Apple社をはじめとする海外企業からの信頼を得て、井之上の活動領域や人脈はさらに拡がりをみせます。たとえば、マサチューセッツ工科大学(MIT)人工知能研究所所長のシーモア・パパート博士と出会ったのもこの時期。

この出会いがAIと関わる先駆けとなり、井之上PRは、同博士が低学年児童用に開発したコンピュータ言語「LOGO」(ロゴ)の国内教育市場への導入を図るためのPR活動を担うことになります。その結果カナダと日本の合弁会社、ロゴジャパン株式会社設立(1986年)につながり、日本の小・中学校におけるコンピュータ・リテラシー教育に多大な影響を与えることになるのです。

ありがたいことに、こうした多様な仕事の依頼が続々と入ってくるようになりました。しかし当時、ただひとつ井之上の頭を悩ませていたのは、会社で働く人材の問題でした。

1980年代当時、パブリック・リレーションズを正しく理解し、“戦略家”としてプランを描ける若手人材はほとんどいなかったのです。体系的に学べる場所も、実務に携われる会社も、日本にはありませんでした。

井之上 「人の教育は本当に難しかったですね。だから自分の目が届く範囲で、社員30人前後。長い間、ずっとそのくらいの人数で会社を維持していました。仕事はどんどん増えるのに……それだけはどうしようもないことでした」

会社に大きな転機をもたらした成功事例と、現場で生まれつつある課題。それらを抱えながら、井之上PRは次の時代、新たなステージへと歩みを進めていくことになりました。

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