次世代を担う若者たちへ――パブリック・リレーションズと共に歩んだ半世紀(後編)

1970年の創業以来、「パブリック・リレーションズ」を追求し続けてきた株式会社井之上パブリックリレーションズ。90年代に世界経済に影響を与えた案件への関与を経て、創業者である井之上喬は、井之上PRが現在も重視している3つのキーワードにたどり着きました。そして、それらは次世代へと受け継がれようとしています――。
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パブリック・リレーションズの普及を阻む、日本の「阿吽の呼吸」

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▲井之上近影

今後ますますグローバル化が進めば、多民族・多言語・多宗教の人々が入り交じって暮らしていく社会が当たり前になる。そこで、パブリック・リレーションズの考え方が今まで以上に重要となっていくはず――。井之上は、あるときからそんな思いを抱くようになりました。

1970年の創業から20年の間に、株式会社井之上パブリックリレーションズ(以下、井之上PR)は、世界を代表する大手企業をはじめ、さまざまな組織のPR活動を手がけるようになっていました。

しかし一方では、戦略的なパブリック・リレーションズの統合的な手法を確立したものの、それがなかなか日本の社会に浸透していかないというジレンマも抱えていたのです。そのため井之上PRでは、1980年代から常に、人材の確保が会社としての課題になっていました。

井之上自身は、その大きな要因のひとつが、日本特有のハイ・コンテクスト型コミュニケーションであると考えていました。

「阿吽の呼吸」という言葉が示すように、私たち日本人は、多くを伝えなくても相手が何を求めているのか“察する”ことを美徳としてきました。

しかし世界を見渡してみると、その多くは多民族社会であり、共有される文化的な要素も極めて少ないことがほとんどです。つまりは基本的に「ロー・コンテクスト型」。パブリック・リレーションズは、このロー・コンテクスト型コミュニケーションを前提として成り立つ概念なのです。

本質的なパブリック・リレーションズを日本でも浸透させるにはどうしたらいいか――模索を続けるうち、井之上は1990年代にあるひとつのモデルにたどり着きました。それが、現在も井之上PRが大切にしている「自己修正」の考え方です。

「自己修正」とは、相手とのより良い関係を築くために、大きな倫理観に基づいて自分自身のあり方を深く見直し、変えていくこと。

井之上「自己修正は、ただ相手に合わせればいいというものではありません。相手のことを思いやる倫理観があって、はじめて機能するものです」

井之上がこの「自己修正型モデル」の重要性を確信するに至った背景には、井之上PRが1994〜96年にかけて手がけた、企業の枠を越えた国家間でのPR活動が深く影響していました。

イチ企業のPR戦略を超え、国家間の経済摩擦解消に貢献

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▲米・テネコ社に関する当時の報道

1990年代半ば、日米の間には深刻な貿易摩擦が起きていました。対日貿易において、アメリカが出していた赤字の総額は約600億ドル。その半分以上が、自動車関連の取引における損出でした。

この事態を重く見たアメリカ側は、日本の市場に問題があるとして改善を要求。しかし交渉は順調に進まず、アメリカが日本に対して経済制裁の措置をとる、その一歩手前の状態まで迫りつつありました。

米国のコングロマリットで自動車部品を製造販売する米・テネコ・オートモティブ社(Tenneco Inc.)も、日本市場での活躍を阻まれていた企業のひとつ。同社は1973年に日本法人を設立したものの、20年以上にわたり業績が振るわない状態が続き、その打開策を探っていたのです。

1994年1月、テネコ社は日本国内のアフター・マーケット(自動車補修部品市場)での将来的なビジネス展開を見据え、井之上PRとコンサルテーション契約を結びます。そこで井之上PRはまず、さまざまな仮説を立てながら、改めて市場調査を行うことになったのです。

井之上 「調査の結果、運輸省や大蔵省が国内のアフター・マーケットを保護する仕組みを作っていたり、純正品が一番高性能だという神話が根強く残っていたりすることが判明したんです。この結果をもとに、私たちはリポートを作成しました」

このとき作られたのが、後の政府規制緩和を実現するうえで有力な資料となった「テネコ・リポート」です。

テネコ・リポートにもとづき、井之上は3つの目標を設定しました。ひとつは、マーケットの規制緩和を実現すること。もうひとつは、テネコ社の日本国内での新たなセールス・チャネルを開拓すること。そして、制度変更について消費者に対する啓発を行うこと――。

これらの目標に沿って、井之上PRはそれぞれターゲットを設定し、具体的なPR戦略を構築し、詳細なプランへと落とし込んでいきました。それは井之上PRにとっても、大変大きなチャレンジとなることは明白でした。

私益よりも公益を優先――「自己修正」の重要性を実感した瞬間

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▲1997年のゴールデン・ワールド・アワード受賞式にて。審査委員長、IPRA会長と共に高原須美子駐フィンランド大使、棚橋祐治元通産次官も駆けつけてくれた。(写真右から4人目が井之上)

テネコ社の案件で重要な鍵を握っていたのは、ガバメント・リレーションズでした。政府の規制緩和を実現させるために、米国政府と日本政府それぞれに対するロビイング活動が必要だったのです。

1994年7月、井之上PRが作成した「テネコ・リポート」は、計画通り日米の政府関係機関に送付されました。そして、事態は一気に動きはじめます――。

井之上 「本当は当初、『テネコ・リポート』を記者会見で公表する予定でした。しかし日米交渉がどんどん激化するにつれてリポートの重要性が増し、イチ企業の問題を遥かに超える事態になっていったんです。テネコ本社はレポートの公表を恐れ我々に公表差し止めを言ってきたのです。これはまずい、と思いましたね」

1995年4月には、円が1ドル=79円75銭となり、日米自動車交渉はさらに加熱。交渉が決裂した場合、アメリカは日本政府に対して約52億ドルの経済制裁を加えると発表しました。

このままでは、日米だけではなく世界経済に混乱が起きると確信した井之上は行動を起こしました。

井之上 「テネコ社の副社長に、繰り返しメールを送り続けたんです。これはもうテネコだけの問題ではない。経済大国である日米双方の衝突は、世界経済に悪影響を与えかねない。なんとかうまくやってくれ。そのためにはテネコレポートを公表するしかない……と」

副社長から「わかった」という返事が返ってきたのは、本当にギリギリのタイミングでした。クライアントの了承をとりつけた井之上は、マスメディア向けにオフレコで「テネコ・リポート」を公表。メディアはそれを受けて関連する記事の掲載を開始し、世論が少しずつ形成されていったのです。

1995年6月末、ようやく日米の交渉は最終決着に至りました。ついに、目標としていたアフター・マーケットの規制緩和が実現したのです。

このときのテネコ社のギリギリの決断こそ、「自己修正」そのものであると井之上は感じていました。目先に見えている自社の利益ではなく、公益である国際経済の安定を優先したのです。

しかし結果的には、規制緩和や法改正が行われたことでテネコ社の日本進出が進み、1996年4月には、テネコ社の日本国内売上が150%増を達成。戦略的パブリック・リレーションズが、新たなビジネスチャンスを生み出すことが実際に証明されました。

この一連のPR活動によって、1997年、井之上PRは国際PR協会(IPRA)の「ゴールデン・ワールド・アワード」のグランプリを獲得。アジア初の快挙となる受賞に世界からもその成果を認められたのです。

半世紀の時を経て、次世代を担う人材にバトンを受け継いでいく

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▲2016年12月にオフィスを移転。業界をリードするPRコンサルティング会社として「クライアントに対するおもてなしの空間」と「社員が快適な環境の中でクリエイティビリティを引き出す空間」との調和を重視しています。

戦略的なパブリック・リレーションズの活動において、目先にある自社の利益を追求するのではなく、倫理観や公益に基づいて行動すること。テネコ社のコンサルテーションを通じて、井之上は「自己修正」と、「リレーションシップ・マネジメント」の重要性を再認識することになりました。

井之上 「企業にとってのステークホルダーに対して、きちんとリレーションシップ・マネジメントを行っていくこと。ステークホルダーが変われば、当然コミュニケーションの取り方も異なってきます。だから目的に応じて戦略を立て、一つひとつプランに落とし込んでいく必要があるのです」

「倫理観」、「双方向コミュニケーション」、そして「自己修正」。現在の井之上PRにつながる3つのキーワードが、こうしてそろったのです。

長い年月をかけてパブリック・リレーションズの手法を確立してきた井之上は、2000年代以降、次世代を担う人材を育成すべく、早稲田大学(2004~2015)をはじめ、現在、京都大学や国際教養大学で教鞭を取っています。長年の課題である若手の育成に、本格的に乗り出したのです。

2006年3月には、PRパーソン、学生、そしてビジネスパーソンがパブリック・リレーションズを学ぶうえでバイブル的な書籍ともなる『パブリックリレーションズ』(日本評論社刊)を上梓。2015年には第2版が刊行されました。

2017年現在、井之上の教え子は2,000人を超えるまでになっています。大学を卒業し、井之上PRで活躍する社員も出はじめました。

井之上 「45年以上この仕事をやってきて、やっと追い風が吹いてきたのを感じています。ただ、パブリック・リレーションズを浸透させることが私たちの本来の目的ではありません。この手法によって、実際に社会をより良い方向へ変えていく。それがすべてです」

“戦略家(ストラテジスト)”であること。ものごとを戦略的に考え、パブリック・リレーションズの手法で他者との関係を構築していくこと――それは何も、国家や組織、企業などに限ったことではないのです。もちろん、PR専門家のものでもありません。

一人ひとりがパブリック・リレーションズの視点を持ち、「倫理観」、「双方向コミュニケーション」、「自己修正」を意識すれば、個人と社会の関係性も変わっていくはず――。

1970年の創業以来、約半世紀にわたって積み重ねてきた井之上PRの資産。現場の一線から退いた今、井之上はそれを次の世代に受け継いでいこうとしています。

現在の井之上PRでは、井之上とさまざまな経験をともにしてきた社員はもちろんのこと、彼の教えを受けた若手の社員たちも活躍しています。時代はこれからも移り変わり、社会はさまざまに変化していくでしょう。

しかし井之上PRは「パブリック・リレーションズ」の普遍的な考え方をもとに、これからも“戦略家”としての役割を全うし続けていきます。

次の文章は、井之上が2015年3月、早稲田大学での最終講義で受講生に贈ったメッセージです。


<次世代のリーダーたちへ>

あなた方、一人ひとりが
パブリック・リレーションズを実践することで
日本を、そして世界を変えることができます。

不透明さが拡がるこの世界を
平和で希望のある
社会に変えるのは、
あなた自身であり
パブリック・リレーションズの力だと
私は信じています。

2015年3月14日
井之上喬

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