自分が自分らしくいるためーー下園家3代のDNAが紡ぐ、故郷・阿久根への想い

1939年に創業した下園薩男商店は、鹿児島県阿久根市で一次産業の水産、とくに干物業を得意とした会社です。創業者である下園薩男が立ち上げたこの会社は、その息子である現代表取締役社長である満、そして三代目にあたる常務取締役 正博へと、そのDNAが受け継がれてきました。下園家3代が紡ぐストーリーと、三代目 正博の挑戦をご覧ください。
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「20年後の日本から干物が消える?」 水産業の復活にかける3代目の決意

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下園正博「創業者の祖父 下園薩男は、とにかくバイタリティーがすごくて、東京の築地からおとなりの韓国まで販路を拡大、商品を売りにいってしまうほど行動力がありました。一方で、現在社長の父 下園満は、商品品質を重視して、衛生管理を徹底する。全く異なるタイプの経営者だからか、家でも2人はよく喧嘩していましたね(笑)」
常務取締役の下園正博は、幼少期の思い出をこう振り返ります。今年で創業77年目を迎える下園薩男商店、ここまでの道のりは決して順風満帆なものではありませんでした。

当社の主軸事業であった塩干と加工水産業は、海外の加工品会社との熾烈な競争に巻き込まれ、縮小ムードにあります。近年では、鹿児島県、丸干しの産地で有名な阿久根でも、若者層の干物離れが進んでいるのが現状です。

正博「このままだと、20〜30年後干物を食べる人がいなくなってしまう…。そうしたら、地元にある10数社の丸干し会社さんがすべて無くなってしまうし、今まで代々受け継いできた文化そのものを失ってしまう気がしたんです」
今からちょうど10年前の2006年、その危機を感じた正博は、父に会社を継ぐ決意を告げます。

正博「まずは私たちの商品に、地元の百貨店や食のセレクトショップが、興味関心を持つものでないと若者は見向きもしてくれません。最初、鯖の味醂干しなど試してみましたが、どうしても価格勝負にしかならない。だから私なりに、下園薩男商店丸干し屋という歴史を1年間かけてリサーチして、下園薩男商店らしいオリジナル商品を開発することにしたんです」
こうして、下園正博のチャレンジする日々がスタート。しかし父 満からは、すぐに会社を継いで新しい商品開発に挑戦することを、応援してもらえたわけではありませんでした。

なぜ、父は会社を継ぐことに反対したのか? それは、正博がまだ中学生だった頃まで遡ります。

「自分にしかできないことをやったほうが人生は楽しい」干物屋を継ぐという選択

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現場のことは、現場の人がよく知っているーー干物業は、もう20年先も生き続けることは難しいかもしれない。だったら息子には地元の公務員に就職してもらい、自分の代で下園薩男商店を畳もうかと父 満は考えていたそうです。

正博「祖父と父は、よく経営方針のことで喧嘩をしていましたから…。父は、息子とそういう関係になりたくなかったんじゃないかなと、今になると思いますね」
当時中学生だった正博も、創業者の祖父や父の背中を見て育ってきたため、サラリーマンはしたくない。ITバブルの真っ最中ということもあり、成長産業のウェブ業界での起業を目指そう。そう考えていました。

正博「父が苦しむ姿を見ていましたし、下園薩男商店を継ぐよりも、自分で会社を興して億万長者になる野望がありました。そして、30歳には仕事から引き上げて、いわゆるアーリーリタイアをしようと目論でいましたね」
情報分野を学ぶために福岡の大学へ進学し、学業とアルバイトに励むなか、2年生のときひょんな気づきから、地元に戻ろうと決心します。

正博「1年時に単位をだいぶ取り終わっていたから、2年生のとき何日間も家でボーとしている時間が増えてたんです。友達も予定であり、なかなか遊びにいけない。暇を持て余す日常がずっと待っている……これって、億万長者になっても同じなのかなって。

それじゃ人生の目標としては楽しくない。自分の人生を考えたとき、やっぱり自分にしかできないことをやったほうが楽しいじゃないですか。私は、下園家の長男ですし、鹿児島に戻って、干物屋に継ぐのは自分しかできないだろうと思ったんです」
ただすぐに地元に帰っても、現在の販路は限られている…。そこで正博は、独自の販売先を開拓するヒントを探しに上京。東京でウェブデザイナー、ディレクターとして2年間勤めたのち、水産業について深く知るために、商社へ営業マンとして入社しました。

パフォーマンスを最大限に発揮するコツは、自分が“好き”かどうか

しかし、この水産商社で、正博は大きな挫折を味わうことになります。

正博「当時のウェブ業界はITバブルの真っ只中で、教育面もしっかりしていたし、そこで働いていた2年間はものすごいスピードで自分の成長につながったんです。ただ商社に入った途端、振ってもらえる仕事がない、先輩は何も教えてくれないという環境が待っていました。

私自身、営業職が初めてだったので、営業の仕方もわからないし、3年間ぐらいは周囲の人たちに売上でまったく勝つことができず、悔しい思いをしました。胃潰瘍で入院するほど、追い詰められていましたね」
そんな正博に転機が訪れたのは、得意先であった大手量販店スーパーの商品開発に挑戦するチャンスを獲得したときのこと。お惣菜の寿司コーナーの開発研究の案件を受注することができたのです。売上もどんどん上がり、予算達成率が200%、営業成績は2位まで登りつめました。

正博「実は、お客さんに媚びを売る、接待をするのが苦手で、これは営業マンとしてはマイナスです。でもこれをきっかけに、自分の好きな分野で勝負することが大切なんだと気づきました。たとえば、街の市場にある魚屋さんにプレゼン資料を持っていても、『ばかやろー!帰れ!』と怒られるだけでしょ(笑)ちゃんと自分のスキルが生かせる場所がどこなのか、それを見つけることを忘れてはいけないんです」
その経験は、下園薩男商店の若手人材育成に生かされています。正博は、社員に対して「俺はこれが好きだからやるけど、あなたは何が好きなの?」 と問いかけ、自分なりに得意なこと、好きなことを見つけてもらうようなスタンスをとっています。

成功体験で自信をつけた正博は、鹿児島に戻って下園薩男商店に入社。すぐに常務の役職につくことはせず、店舗や他のスタッフの手伝いをしながら、下園薩男商店の未来を担う、新商品開発を1人で黙々と進めることになります。

地元の人、そして社員の人生を豊かにするーー下園家3代に受け継がれるDNA

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鹿児島県阿久根市で採れるウルメイワシとオイルサーディン、そして下園薩男商店に伝わる干物のノウハウを組み合わせて作りあげた「旅する丸干し」。

これは、正博が約2年間をかけて、研究を重ねて開発した商品です。

従来オイルサーディンには、生のニシンなどが使われますが、「旅する丸干し」は、6月に獲れたばかりの旬のウルメイワシを干し上げてから1尾ずつ丁寧に焼き、手作業で瓶につめていくことで、香ばしさと噛みごたえのある食感と味わいに仕上がりました。

ラインナップも、正博が好きなヨーロッパからインスピレーションを受けて、「プロヴァンス風(オリーブ・ハーブ)」「南イタリア風(ドライトマト・ガーリック)」「マドラス(カレー・ミックスビーンズ)」「阿久根プレーン(ボンタンエッセンス)」のた4種類を展開しています。

どれも手作業であり、かかる手間と多くの工程があるため、その分コストがかかっている。しかし「旅する丸干し」には、奇しくも下園家三代の共通する思いが込められています。それは、ふるさとである阿久根への地元愛。

正博「業務効率化を図るために、機械を導入する完全オートメーションはしない、そう決めています。もちろん、人件費がかかりますが、イコール地域の人材にお金を渡る、還元することにつながるからです。

祖父は営業先を開拓して地元に雇用を増やし、父は商工会所に入り、イベントを開催して、地域貢献に努めています。そして私は、下園薩男商店で働く84人の全社員、それぞれの幸せをつくりたい。多種多様な世の中だからこそ、一人ひとりに向き合っていくこと、それを次世代に伝えていきたいです」
さらに、親子三代受け継いだノウハウとして、「魚を買う人間を疲れさせるな」という言葉があります。これは、専門性がある人は、その仕事に集中させて、余計な作業させるなというもの。商品のキモとなる魚の“目利き”を何よりも大切にする下園薩男商店のDNAです。

2017年5月には、地元に根ざす店舗のオープンを控えています。正博は、元イタリアンシェフである商品開発部リーダーと、次なる新商品と干物業に関わる人たちの環境づくりに汗を流す日々を送っています。

自分らしく、楽しくいること。

正博「地元から、『旅する丸干し』のような商品が生まれると、地域の人たちはすごく喜んでくれる。それが、改めて地域にある資源の再発見になり、新しいアイデアが生まれやすくなる。そうやって、阿久根に住む人たちの人生を豊かにできたら嬉しいですね」
祖父、そして父から受け継いだ下園薩男商店のDNA。そして“自分らしさ”を大切にする3代目下園正博は、これからも干物業界の常識を打ち破り続けていくのでしょう。

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