転機はいつも向こうから。数字嫌いのお嬢さんが、会計士、そして組織を率いるなんて

新生銀行グループ人事部でGMを務める西玉音は、人材育成・採用、そして組織開発と、さまざまな人事マネジメントの業務にあたっています。しかし彼女はつい数年前までファイナンス分野でキャリアを積んできた会計の人間。このキャリアの大きな転機は、実は西独自の考え方が引き寄せていたのです。
  • eight

“お嬢さん”から“お母さん”に。でもキャリアには執着せず、すぐ次へ

C11d61ca8a6c03012d45c84ddf4e8d21e50833f3

あるメーカーの会長秘書、これが私のキャリアスタートでした。しかし配属1カ月後に、ご高齢だった会長が逝去。すぐに経理部に異動になります。

実は、若い頃私は数字がまったくダメで、学生時代、友人に財布を預けて「割り勘分ここから出して」とお願いしていたほどなんです。だから、経理部配属と聞いた学生時代の友人たちは「その会社は無謀!」とおどろいていました。そんな私が経理部配属になったんです。

配属後、先輩から「ソロバンできる?」と聞かれて「触ったことありません」。「じゃ電卓は?」「電卓も触ったことありません」。返事を聞くなり先輩は「課長、この子アカンわ」とひとこと。

そこからは毎日が試算表のすべての数字を足して「0」になるか、電卓の練習です。もう辛くて「会社を辞める」と泣き言を言っていました。人事からは「あなたは適性検査で向いているとでているから大丈夫」と言われ、仕方なく、しばらくがんばりました。

最初の1カ月、部署内では“お嬢さん”と呼ばれていましたが、1年後に私の呼び名は“経理のお母さん”になっていました(笑)。もともと体育会系だったからかもしれませんが、次第に周囲を仕切るようになっていったからです。

ただ、どれだけ仕事を覚えても叶わないものがありました。経理部には毎年若手の男性社員が配属されていたのですが、すぐに私の仕事を飛び越していくんです。私はいつもサポート……。退屈でした。

ある時、課長に「私にも彼らの仕事はできます。やらせてほしい」と直談判しますが、「あなたにもできるかもしれない。でも、女性は前例がないから」と断られてしまいます。会社の人間関係はよかったけれど、やはりちゃんと仕事を評価してほしい。

「できるとわかっているのに、前例がないから」という理由が、私にはまったく理解できなかったんです。そうかダメなのか……。「じゃ辞めます」と、退職はけっこうあっさりと決めました。入社から5年目の夏でした。ちょうど世間は夏休み、じゃあ語学学校でもとアメリカへ。日本でブラブラするよりはいいか、と何の計画性もなくフッと思い立ったというニュアンスが近いかもしれません。

なんとなく語学留学……MBAをとりアメリカの会計士へ

選んだのは、ニュージャージー州の語学学校でした。夏が過ぎ、秋が来て……居心地がよかったのかなんとなく居座る感じになり、でもお金がなくなるのでどうしようかと思っていたら、語学学校の友人が、ニューヨークのマンハッタンの会計事務所でアルバイトを募集していると教えてくれました。

その会計事務所のオーナー(会計士)は日系アメリカ人で、クライアントもほぼ日本企業。ただそのオーナーご本人は日本語があまりできないので、日本語が話せて経理業務の知識のある人を探しているということでした。面接後、すぐ採用になり、アルバイトと語学学校を両立する日々がはじまりました。

そうこうするうち幸運にもグリーンカード抽選プログラムに当選します。永住したかったわけではなく、仕事を得るために必要だから応募していたんです。

実際に永住権を得るにはスポンサーが必要で、オーナーにお願いすると「うちでずっと働いてくれるならいいよ」と快諾してくれました。その時「あなたは一体何になりたいの?」と聞かれて「いや別に。しばらくアメリカで暮らしたいぐらいかな」と答えたんです。

オーナーは「それはもったいない。大学院に行ってみないか」と。勉強は嫌いだし無理だと思うと答えたのですが、「MBA取れそうな気がするから、とりあえずチャレンジしてごらん」とさらに勧められると、単純なので行く気になりました。でも、実際に学校に合格したとき、いちばんおどろいたのはオーナー自身でした。

それから3年間、昼は会計事務所で働いて夜は学生という生活を続け、「プロフェッショナルアカウンティングMBA」という会計学に特化したMBAを取得します。

アメリカのCPA(会計士)試験を受験したのも自分からではなく、周囲から「会計士になるんでしょ?」と半ば促されての受験でした。CPA試験に合格した際も、やはりオーナーが一番おどろいていました。「ジーザス!試験は簡単になったのかもしれない」と(笑)。

その後は、仕事も任されて、友人も増えすごく幸せで、漠然と「このままずっとここにいるんだろうな」と感じていました。でも、会計士として働きはじめて3年経った頃、帰国を決断します。

当時、20歳ほど年上の日本人女性の友人がいました。独身でパートナーがいて、弁護士事務所を任されて、エンパイア・ステートビルにオフィスを持って……。そんな誰もがうらやむようなキャリアを歩んでいる彼女がこう言ったんです。

「日本にいる専業主婦の妹の方が私よりずっと幸せに見える。私は仕事は充実しているけれど、時間に追われて、何してるんだろうとふと寂しくなることがある。夏休みに日本に帰国しても私の居場所はここではないと感じるし、アメリカに戻っても不安になる。自分の本拠地ってどこにあるんだろう」

これだけキャリアを極めた人なのに……。帰るなら今だなと思いました。今なら日本でも仕事は見つかるだろうし、日本の生活にもアジャストできる。夏休みだけのつもりで日本を出て、もう10年近くが経っていました。

ファイナンスから組織開発へ。私のキャリアは面白い方に転がる

7f0d9c04984f5e3f757a416b995a7c64e95db4c8

帰国後、結婚し半年ほど専業主婦でしたが、「そろそろ仕事をしようかな」と転職エージェントに登録しました。すぐにGE Consumer Credit Co(のちのGEコンシューマー・ファイナンス (GECF))を紹介され、シニアアカウンタントとして働きはじめました。

ちょうどGEキャピタルがレイクを買収した1~2年後頃です。日本企業であるレイクは当然日本の会計基準で決算をしますが、アメリカのGE本社にはアメリカ会計基準で決算をやり直して報告しなければならない。日本とアメリカ両方の会計がわかる人材を求めていました。

シニアアカウンタント時代にいちばん記憶に残っているのは、あるプロジェクトのリーダーを任されたことです。レイクのシステムを総入れ替えする大規模なプロジェクトがありました。そのために、社外からファイナンスのプロジェクトリーダーを雇ったのですが、1カ月後にローンチという状況になってもまったくワークしないという状態。

私はマネージャーでもなんでもなかったけれど、CFOに呼び出されてプロジェクトリーダーをやってほしいと頼まれます。後には引けない状況だったので「やるからには全責任を負うので、全権限を私にください」と条件を出して引き受けました。

当時は、他部署からファイナンスのせいでプロジェクトが滅茶苦茶になっていると文句を言われるし、敵対心あらわに怒鳴られたこともありました。でも新プロジェクトメンバーで必死に取り組むうちに、相手との関係性が少しずつ良くなっていきました。

こちらが誠心誠意、一生懸命やるべきことに向き合っていたら、相手がいくら敵対心をもっていようと気持ちは伝わるんだと思いました。この経験で、いざというときチームをまとめてガガッと前へ進める醍醐味と、チームの盛り上げ方を学びました。いまだに「あの時はきつかったけど、やりがいがあり、楽しかったね」と仲間うちでは思い出話がでます。

GECFが新生銀行グループ入りした2008年からは、新生フィナンシャル(GECFから社名変更)の経理部長としてのキャリアを歩んでいたのですが、2013年6月にまったく畑違いの部署に異動になったんです。

突然、CFOから組織開発部にいってくれと。青天の霹靂です。組織開発部は2012年に立ち上がった新規部署。心の準備もないままに異動になったので、研修に参加したり本を読んだり人の話を聞きにいったり、勉強からのスタートでした。

ところが1年半ぐらいした頃、今度は社長から「組織開発も含めた人材開発部門の部門長になってほしい」と言われます。組織開発の仕事が面白くなってきたところだったので、「断れますか」と聞いてみたのですが、無言で返されて……。素直に受け入れました。

その後、新生銀行のグループ融合が動きはじめ、グループ各社の人事機能がひとつになり、新生銀行グループ人事部GMを拝命して2019年現在に至ります。

しなやかに生きていく。その先に、思いもよらない可能性がある

5347c538bfb14ebb0238c2102945a58d37775120
▲ダイバーシティ推進室のメンバー

「どんな人生を生きたいんだ?」——。30歳を過ぎたころ、弟に聞かれたことがあるんです。「川の流れに身を任せて生きていきたいんだよね」と答えたら、激怒された覚えがあります(笑)。

でも振り返ると「大学院に行ってみたら?」「会計士になってみたら?」という誰かの言葉を受け入れて、私の人生は大きく変わってきているんですね。経理部長の仕事が充実していたなか「組織開発をやってほしい」と言われたときも、「私はファイナンスの人間だから」と断って転職する道もありました。

でも私は、「組織開発も私にできるのかな。じゃ、やってみようか」と新たな可能性を選んだんです。未知なる分野への好奇心もありました。

他人が可能性を認めてくれているなら、自分はこうだと決めつけずに、縁とか人のアドバイス、言葉を信じて「もしかしたらそうかもね」とトライしてみる価値はあると思います。そうすると世界が広がっていく。

思い返してみると、いままで自分で「私はこの道をいきます」と言ったことはなかったですね。

若い人には「自分で自分の可能性を狭めたら損するよ。やわらかい頭と心を持っていた方がいいよ」とよく話します。もちろん、それは他人を頼るのではなく、最終的に決めるのは自分だけれど、選択肢を増やすという意味。

選ぶのは自分。自分のキャリアについて夢にも思っていなかったことを言われたときに、「自分にはこんな可能性もあるんだ。やってみようか」と考える。たとえ失敗しても誰も責めません。失敗から学ぶことはいくらでもあるし、あまりくよくよしないことです。

社員のみなさんには、ひとりひとりが活躍できるようにできるだけ多くのキャリア、働き方の選択肢を持ってほしいし、私自身はそのような環境をつくっていきたいと考えています。

いろんな選択肢があって、異なる文化や生き方、価値観を認めあう人たちが働いている組織にしていきたいですね。みんな違っていていいんじゃないと思うんです。

2018年から、グループ・ダイバーシティ推進室長を兼務しています。文字通り、新生銀行グループのダイバーシティを推進していくチームなんですが、まずは、女性活躍推進から取り掛かっています。女性活躍推進を入り口にして、真のダイバーシティを実現していきたい。でも、こういうチームができたということは、やらなきゃいけないことがたくさんあるということなんです。

自分が自分らしくいられる、そんな組織にしたいですね。

関連ストーリー

注目ストーリー