知的障がいの陸上界にあらわれたトップランナー、アスリート契約第1号が決まるまで

2018年7月、関東パラ陸上競技選手権大会800mでアジア新記録を打ち出した米澤諒。知的障がいをもちながら、同年4月にエスプールとアスリート雇用契約の第1号として入社した新人社員です。スピードでは圧倒的な速さを誇る米澤ですが、そこに至る道のりは簡単ではありませんでした。ご両親である米澤寛さん、しのぶさんに伺います。

昼間の高校に入学できなかったからこそ巡り会えた、陸上という新しい世界

▲米澤諒(3歳頃)。運動が大好きで活発な子どもだった

知的障がいと判定された時、米澤諒は3歳でした。「ふつうの子より手がかかりすぎる」と両親が訪ねた専門医に、自閉傾向があり、発達障がいがあること、そして一生続くことを告げられます。

米澤は多動性障がいがあり、じっとしていられない子どもでした。昼でも夜でもすぐに家を飛び出して、母のしのぶさんは年中近所を探し回っていたそうです。

しのぶさん 「毎日のように家の鍵を外してすぐいなくなる。足が速くて、疲れ知らずで、どこまでもどんどん走っていってしまうという感じ。見つけるのが大変で、警察に保護されパトカーで帰宅することが何度もありました」

地域で普通の子と一緒に育てたいというご両親の希望で、小中学校は普通校に進みます。中学時代は陸上部に入りますが、「どこに行くかわからない子は連れていけない」と、練習は参加できても試合には連れていってもらえませんでした。ところが、3年生の体育祭で、未来の片鱗がのぞきます。

寛さん 「 100m走でいちばんになったんです。部活で鍛えている体格のいい子たちもいるのに。それは驚きましたね」

卒業後は地元の定時制高校に入学。昼間の高校に進ませたいという思いに反して、県立の全日制高校はあちこち足を運んでも、どこも受け入れてくれませんでした。しかし、それが陸上との出会いにつながります。

空いた昼の時間帯に、米澤はNPO法人「木ようの家」に週3回通いはじめました。「木ようの家」は障がい者の日中活動を支援し、地域とともに暮らし働くことを目的に活動をしている団体。

そこで知的障がいのあるメンバーは、それぞれ障がいの程度や種類も違いますが、主に社会に出ていない時間に木ようの家で過ごし、点字名刺を打つ仕事や、会報の発送作業、街の掃除などのボランティアや、シルバー会のカフェで働くなどさまざまな活動をします。

その他ボランティアと体操や手話ダンス、野菜畑を手伝ったり、競技場を走ったり、絵の先生が教えてくれる日もあります。

ある時、坂道をものすごい勢いで駆け上がり、メンバーとともにトラックを走る米澤を見た、木ようの家センター長の工藤さんが思いがけない提案をします。

寛さん 「陸上の練習をやろう、と。この瞬発力とバネは、努力ではなく天性だと言ってくれたんです」

そうして工藤コーチのもと週1回のトレーニングが始まります。最初はロードレースに参加し、その後トラック競技に取り組みました。2014年千葉県で開催された障がい者スポーツ大会の800mに初出場し、いきなり県で3位という好成績をおさめたのです。

工藤コーチは「諒くんは負けん気があり、もっと伸びるはず。ワンランク上を目指そう」と、市民ランナー団体の「ニッポンランナーズ」に所属する萩谷コーチを紹介。ふたりのコーチがついて、米澤は陸上に夢中になります。炎天下でも雨天でも、繰り返しの地道なトレーニングに黙々と取り組みました。

まわりを驚かせる快進撃は、ここから始まったのです。

わずか1年程度でトップランナーに躍りでる、非凡な才能

▲第16回四街道ガス灯ロードレース知的障がい者5Kmの部門に出場し4位入賞

2015年は、寛さんいわく「非常に面白い」年でした。知的障がい者陸上競技の最高峰といわれる、日本知的障がい者陸上競技連盟(JIDAF)主催の日本ID選手権大会に、米澤は800mと1500mの2種目に出場します。

日本ID選手権には「選手権クラス」「未来アスリートクラス」の2つのカテゴリーがあります。米澤は初参加で実績もないので、下位の「未来アスリートクラス」で参加。

同行した陸上経験のある姉のサポートでなんと2種目とも優勝を果たしたのです。そのうえ800mでは「選手権クラス」と比べても遜色のない記録でした。

それからの活躍はめざましく、試合に出るたびに自己新記録を打ち出しました。寛さんは「ラストスパートがすばらしくそれは気持ちいいぐらい、どんどん伸びた」と言います。

それから2週間後の全国高等学校定時制通信制陸上競技大会の800mに佐倉東高校定時制4年生の選手として出場して、全国2位。健常者といっしょに走っての結果に学校も沸き、正門脇に横断幕が掲げられるほどでした。

続いて和歌山県での第15回全国障がい者スポーツ大会(通称パラ国体)でも800m、1500mの2種目で金メダルを獲得。

寛さん 「高校卒業後は、なかなか就職先が見つからなかったのですが、なんとか地元の佐倉市役所のチャレンジドオフィスさくらに採用され、仕事をしながら陸上を続けることができました」

快進撃は続きます。2016年6月、新潟県でのジャパンパラ陸上競技大会800mに初出場、大会新記録で優勝。その年の10月、岩手県での第16回全国障がい者スポーツ大会の800mで大会新記録。

2017年には、バンコクで開催されたINAS(国際知的障がい者スポーツ連盟)が主催する知的障がい者の総合国際大会「グローバルゲームズ」にも出場を果たしました。寛さんは「本当にもうすばらしいことづくめで、諒のことを頼もしく思いました」と目を細めます。

東京パラリンピックの話も、周りから自然と出始めました。ただし東京パラリンピックに800mはありません。出場するなら1500mか400m。

米澤はこの頃、1500mに伸び悩み800mが中心になっていたこともあり、2017年夏、本格的に800mに加え400mの練習を開始します。

転向を決めたのと同じ頃、もうひとつ課題が持ち上がっていました。勤めていたチャレンジドオフィスさくらは、就労機会の少ない知的障がい者が経験を積み、一般企業へ就職するための、あくまで橋渡しが目的。勤められるのは最大2年間と決まっていたのです。

その夏は、米澤がチャレンジドオフィスさくらに行き始めて2度目の夏でした。

陸上を続けさせてやりたい、その想いを受け止めたのは……

▲エスプールユニフォームを身につけ出場した米澤 800Mでは2位を大きく引き離し優勝を勝ち取った

陸上を続けられること――。それが願いでした。

寛さん 「わたしは仕事がみつからなくても陸上競技を続けさせたいと思いましたが、妻は息子が陸上競技に加え『ともに学ぶ』を実践して、次は社会に出て『ともに働く』ことを重要視していました」

非凡な才能で、わずか1年でトップアスリートの仲間入りをした米澤は、パラ国体の千葉県選手団やパラリンピックの特別強化指定選手の合宿などにひとりで参加するようになっていました。

寛さん 「息子は家族といっしょに外泊することはあってもなかなか親元を離れてという場面はありませんでした。しかし、陸上を通して集団生活を体験して成長するのを感じていたんです」

なんとか陸上と仕事を両立できる会社はないか。両親は「採用される前から要望が多いと思われるかもしれない」と感じつつも妥協することはできませんでした。

チャレンジドオフィスさくらのジョブコーチも懸命に探してくれますが、どの企業からも、なかなかよい返事はもらえません。知的障がいの場合、職場にジョブコーチがいないと仕事が成立しない。それもハードルのひとつでした。

そんな状況で、米澤の陸上での活躍に興味をもったのがエスプールだったのです。

佐倉市の担当者としのぶさんがエスプールを初めて見学したのが11月。その後、何度か面談や職場訪問を重ね、人事部長ともいろんな話をしました。

しのぶさん 「それまでの就活では、諒に出来る仕事のある会社を探していたのですが、エスプールさんは逆に『どんな仕事ならできますか?』と聞いてくれ、チャレンジドオフィスでしていたような事務仕事を、諒のために社内から切り出してくれたのです」

それまでエスプールにアスリート契約の社員はいませんでした。採用するなら労働面の制度づくりが必須。米澤が練習に専念できるよう勤務条件などの詳細も詰めていく必要があります。

寛さん 「お願いしたのはアスリート採用だけれど、走れなくなった後も仕事は続けさせてほしい。しかし当面は彼の可能性にかけたいので練習できる環境をつくってほしいということを一番に伝えました。
私自身も経験上、労務面の制度づくりは時間もかかるし面倒だと知っていますが、エスプールさんは若さのある会社で、採用を決めてから早かった。短期間にガガガっとつくられ、馬力がありましたね」 

「彼も自分で、生きていくんだなと」――。地域とともに生きる道

▲2018年4月に行われた入社式。わーくはぴねす農園を運営するエスプールプラス社長・和田一紀(写真左)、エスプール人事部長・米川幸次(写真右)をはじめ多くの社員が駆けつけた

就職できたことの安堵感は非常に大きいと、寛さんは言います。

一般的にアスリート採用の場合、仕事はせず練習だけというケースも多いですが、ご両親はそれを望んでいませんでした。「社会人としての経験もきちんと積んで、ちゃんと働いてもらいたい」という想いをもっています。

寛さん 「いずれ私も妻も先に死ぬ。残された息子がずっと特別な環境でいるよりも、最初から普通にみんなと一緒に生きているなら、 “あいつちょっと変だけど、悪いやつじゃない ”と理解してもらって、ひとりでも歩いていけるのかなと、そんな想いは息子が子どもの頃からありました。
先日、年末調整の書類を書いたんですが、息子が扶養家族から外れたんです。彼も自分でね、生きていくんだなと……」

しのぶさんは「障がいがあっても地域でともに学ぶ、生きる働く」を目指してきたけれど、いろんな壁にぶつかったと言います。

しのぶさん 「優しい方もたくさんいたけれど、ここにいていいんだよ、ウェルカムだよといってもらえないことの方が多かった。
だから、 “ぜひともエスプールに来てください ”と言っていただいた時は、えっ本当に?と不安になったくらいです。こんなに応援してくれること、とてもうれしく誇らしく思っています。感謝の気持ちでいっぱいです」

ご両親が新たに期待するのは、いずれジョブコーチがいなくても、ひとりで仕事ができるようになってくれること。そして、もうひとつは……

寛さん 「ずっと走ってほしい。すべての記録を塗り替えてほしい。マスターズクラスまでいって、陸上をずっと “人生の友 ”として長くやっていけたらいいと願います」

エスプールは失敗を恐れずチャレンジする人をサポートし、アスリート活動を支援するだけではなく、引退後もずっといっしょに走り続けます。これからも、もっと大勢の仲間たちと――。

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