海外生活から帰国後に知った、“知らない”というギャップ

▲シャンティ国際ボランティア会 広報・リレーションズ課 課長 鈴木晶子(すずきあきこ)

カンボジア、ラオス、ミャンマー(ビルマ)難民キャンプ、アフガニスタン、ミャンマー、ネパール、タイの7つの地域での事業、国内外での緊急救援活動に取り組むシャンティ国際ボランティア会。

活動エリアの広さはもちろんのこと、事業内容も多岐にわたる中、さまざまなステークホルダーとのコミュニケーションを担当するのが、広報・リレーションズ課課長の鈴木晶子です。

コミュニケーションする相手も国内外多岐にわたり、伝える内容も幅広いシャンティの広報。日々試行錯誤しながら「伝えること」に取り組む鈴木は、当時まだ大学4年生だった2005年1月からシャンティでの活動をスタートさせました。

彼女はシャンティに応募するまで、インターンやボランティアとして活動していたわけではありませんでしたが、振り返ればシャンティとの出会いは必然だったかのようです。

鈴木 「小学校の途中までアメリカで暮らしていました。そして、日本に帰ってきたときに、いろいろなギャップがあることを感じました。自分はアメリカのことを少し知っている一方で、同級生は知らないんだと」

この経験から、その“知らない”というギャップを埋めていきたい、という2019年現在にもつながる想いを持つようになりました。

その後、大学時代は、子どもの国際交流をメインに取り組む団体でボランティアをしていた鈴木。

鈴木 「その団体は、大学生を中心に運営をしていて、毎年夏に 10カ国から子どもたちが日本へ来る受け入れ事業と、日本の子どもたちが他の国に行く派遣事業があり、どちらにも携わっていました」

海外生活から日本に帰ってきたときのカルチャーショック、そして大学時代に取り組んだ、子どもたちの国際交流の場を生み出すボランティア経験から、「人が交流できる場をつくり、それぞれの価値観が変わっていく、という経験を生み出せるような仕事をしたい」と感じた鈴木。

そんな彼女にとってシャンティの一人ひとりのアイデンティティを大切にする姿勢や、「アジア子ども文化祭」の取り組み(※)は、抱いていた想いと一致していました。

※「アジア子ども文化祭」は、困難な状況で暮らすアジアの子どもたちが、伝統舞踊や音楽活動を通して各民族の文化理解と国際交流をすることを目的とし、1996年から2007年にかけて毎年開催していたイベントです。この活動を引き継ぐかたちで、2009年から2018年まで、一時的な避難場所であるタイ国境の難民キャンプ内で難民子ども文化祭を開催。2018年は、9民族から178人が参加し、文化交流を行いました。

NGOの道に進む──きっかけは「NGOって何をしているの?」という疑問

▲三宅島での活動中、茶摘み会の様子。ボランティアの目印である赤い帽子をかぶっているのが鈴木

しかし、そんな鈴木が応募したのは、アジア各国での事業を進める海外事業部ではなく、国内外の緊急救援を行う緊急救援室でした。

シャンティの緊急救援室は、1995年の阪神・淡路大震災後に開設され、現在は令和元年台風19号、令和元年8月九州北部豪雨、ネパール洪水、東日本大震災被災者支援活動に取り組んでいます。

鈴木 「大学のときに祖母の家が被災して、親戚の状況が変わったり、地域が変わったりする姿を目にしていました。泥だしなどで人手が必要な中、たくさんのボランティアの方が来てくれて。
災害支援におけるボランティアを目にして、すごく身近な存在として、また自分ごととして感じられるようになったんです。
海外に関わりながら働くということ、そして災害支援も自分の中でキーワードになっていく中で、どちらにも取り組むことのできるシャンティの募集を見つけて、応募しました」

今では少しずつ増えてきている「新卒でNGO職員になる」という選択肢ですが、当時周りにはほとんどおらず、この道を選ぶことを悩んでいました。

しかし、そんな鈴木の一歩を後押ししたのは、意外にも「NGOって何をやっているの?」という疑問でした。

鈴木 「一般企業への就職活動もしていました。そのときは、海外で働くということを軸に採用試験を受けていたのですが、いざ最終面接で『将来やりたいことはなんですか?』と聞かれたときに、『これが本当にやりたいことなのか』という違和感があったんです。
ただ、NGOに対しては疑問だらけでした。交流事業を行う団体でボランティアをしていたので、海外で事業を行うことのイメージが湧かなくて……。
でも、シャンティと出会って、シャンティがいわゆる開発事業だけに取り組んでいるわけではなく、文化の多様性や個人のアイデンティティを大切にしながら、社会をつくっていく姿勢にとても共感しました。よくわからない、知らないからこそ、やってみようと思い決断したんです」

入職直後、国内外のつながりを感じた国内緊急支援

▲パキスタンでの活動中の様子

鈴木が緊急支援室に入職した2000年ごろ。三宅島の帰島支援が始まりました。三宅島で起こった噴火を受けて、三宅島に暮らす島民全員の避難が決定し、4000人余りの島民は島外での避難生活を余儀なくされました。

全島避難から5年経った2005年、ようやく避難指示が解除され、そのタイミングでシャンティも支援に入りました。

鈴木 「避難していた島民、とくに高齢者の方は慣れ親しんだ三宅島に帰りたい。その一方で、行政としては当時ガスも出ている中で、帰島を推進することはできない、という状況でした。
そこで、シャンティをはじめとした民間によって事務局が立ち上がり、月の半分は三宅島に行き事業に取り組むという生活を、約半年続けていました」

シャンティ入職後、海外事業への想いを抱きながらも、実際に取り組んだのは国内の緊急支援。そこで感じたのは国内・海外どちらか一方だけではなく、日本とのつながりを意識して事業に取り組む、というひとつの軸でした。

鈴木 「三宅島で事業に取り組む中で、いろいろな会社や自治体から社会人が集まってきていて、これまでの先人たちの積み重ねを実感したんです。災害支援を通じて、事業はさまざまなつながりの中で進めていくものだということを体感したことは、自分にとって、とても大きくて。
日本での取り組みも大切にしながら、国内と国外の事業をつなげる、という今もずっと持っている意識につながりました」

その後、パキスタン北東部地震支援やインドネシアジャワ中部地震支援などにも携わる中で、教育文化支援事業に現場で関わりたいという想いが膨らみました。

鈴木 「シャンティの場合、災害支援は長くても 1年程度。災害支援で現地に入っても、ようやく基盤が整って、ここからという復興の前段階で、現場を離れるんです。この短い期間でできることの限界を感じていて、教育文化事業に現場で関わりたいと思うようになりました」

そして、緊急救援室からカンボジア事務所に移り、東京事務所の海外事業担当、東日本大震災後の緊急救援を経て、2015年から広報課に入りました。

遠い国のことを身近に感じてもらうため──現場を知っている私がすべきこと

▲親子向けに講演中の様子

広報課に入ってからは、ステークホルダーとのコミュニケーション、イベント実施や講演会の登壇、『わたしは10歳、本を知らずに育ったの。:アジアの子どもたちに届けられた27万冊の本』出版など、多岐にわたる活動を行う鈴木。

しかし、「シャンティ入職前は、続けても1~2年と思っていた」といいます。そんな鈴木には今でも現場で出会った忘れられない言葉がありました。

鈴木 「パキスタンで事業を行っていたころ、アメリカ育ちの 20代女性と仲良くなりました。結婚を機にアフガニスタンとの国境の街に移住してきた同年代の彼女といろいろな話をしているときに、『あなたの人生がうらやましい』と言われたんです。
このひと言がすごくショックで、『うらやましい』と言われるほど、自分の人生を自分で握っている意識があまりありませんでした。
その彼女は、自分の意思で仕事をすること、学ぶこと、どこかへ行くことが一切できない状況で、アメリカにいたころと状況が変わって苦しい、という話をしていました。一方で、私は自分の意思で日本からパキスタンに来て、自分の好きな仕事ができている、それが『うらやましい』と。
自分では当たり前だと思っていたことが決して当たり前ではなく、自分の人生を生きることが難しい人がいることを実感しました。このひと言から、自分の人生にちゃんと責任を持ちたいと思いました。これが、自分にできること・自分がすべきことを考え始めたきっかけです」

また、難民キャンプで出会った人の言葉も、胸に残っているという。

鈴木 「『自分たちのことが知られていない。伝えてくれ』と、難民キャンプで出会った人に言われたのも、今でも心に残っています。
自分にできることは、現地にとどまって事業をすることだけではなく、声を代弁していくこと、知ってもらえるように努めることだと気づきました。その状況を知った責任、関わった以上は伝える義務があると感じ、それが今の仕事にもつながっています」

どうしたら関心を持ってもらえるのか。日本からは遠い国の話、自分とは関わりのない国の話と思われている中で、同じアジアで起こっていることとして、日本でも少しでも知ってもらいたい。その想いから、今では書籍や映像の制作、いろいろなストーリーを集めることを意識して行っています。

現地で出会った人の想いと日本、そして過去と未来……。伝えることで、つながるものがあります。そんな想いを抱きながら、鈴木はこれからも「伝えること」に取り組んでいきます。