70年の歴史は、小さなバラック工場からはじまった――トラックと共に歩んだ三代記

2016年、創業70年を迎える山田車体工業株式会社(以下、山田車体工業)は、日本における自動車製造の黎明期から、質の高いトラックボデーの開発・製造に取り組んできました。当社の礎を一代で築き上げた、創業者・山田恒策(つねさく)の波乱万丈な人生とは……?
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父の死、一家離散……10歳から仕事に励んだ、創業者・恒策の壮絶な幼少期

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山田車体工業のルーツをたどると、創業者である山田恒策(1913-2009 )の幼き日々にたどりつきます。

現在からさかのぼること、およそ100年。大正2(1913)年に静岡県田方郡川西村(現・伊豆の国市)で生まれた恒策は、農業をするかたわら竹の加工の仕事をする父、母、ふたりの弟、そして祖母の6人家族の中で育ちました。どこにでもある普通の家庭。両親そして祖母の愛を受け、すくすく成長していきます。

しかし恒策が6歳の時、父が突如として帰らぬ人に……。享年36歳。心臓マヒだったそうです。

父の若すぎる旅立ちは、残された家族の生活を一変させました。その4年後、家の物置小屋から火事を出したことをきっかけに、一家は離散。大人たちの話し合いによって、恒策は母の姉である伯母の婚家、加藤家に預けられることになりました。

しかし加藤家は、10人もの子どもを抱えた大家族。家計は常に火の車で、実子ではない恒策は、味噌汁、たくわん一切れにも不自由する生活を強いられていました。

そしてわずか10歳のときから、加藤家の仕事だった荷馬車づくりを手伝うことに。恒策には遠足や海水浴といった小学校の行事を楽しんだり、学校終わりに友達と遊んだりする自由な時間は許されませんでした。夜なべは当たり前。休日もままならず、小遣いを手にすることもなく、ひたすら車輪をつくり続ける……。そんな毎日が、20歳を迎えるまで続いたのです。

「私の立場は弱く、思い返すと思考停止してしまいそうになる。絶望ということすら自覚できないまま全身を動かし働き続けた」――恒策が晩年にみずから記した自分史『わが人生 弥勒路より』(2007年発行)には、当時を振り返ったこんな言葉がつづられています。

恒策は子どもらしいことを何一つできぬまま、進学もあきらめ、毎日真っ黒になりながら、加藤家で荷馬車の車輪づくりや自動車の修理に明け暮れました。しかしそんな苦難の日々を積み重ねるなかで、恒策はいつしか高い技術を身につけていくことになります。それと同時に、胸の内に秘めた職人気質も磨かれていったのでしょう。

たとえどんな苦境に立たされても、強い心を宿して努力し続け、後に自分の工場を持つまでになるのだから……。

「戦争から生きて帰れたら、自分の工場を持とう」己の腕一本で生きる決意

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恒策が相変わらず仕事の日々に翻弄されているうちに、時代は大正から昭和へと移り変わっていました。20歳を迎えた昭和8(1933)年には徴兵検査を受け、翌年には現役輜重兵(輸送を行なう部隊)として軍隊に入隊。

そこで恒策は、自動車修理の経験を買われて「自動車係」に任命されています。当時の軍隊で「自動車」といえば、現在のトラックのこと。恒策は、ここでトラックにまつわる任務につくことになったのです。

「軍隊にあったときは車輌関係の仕事には慣れており『芸は身を助ける』と優遇される機会もあったように思うが、当時の軍隊の内部は厳しく自他ともに大変な軍律に何度泣かされことか……」(創業者・山田恒策の手記より)
軍隊でさらに経験を重ねて、2年後に除隊されると再び加藤家に戻り、仕事に汗を流す日々を送るようになります。この頃の加藤家では、修理だけではなく自動車の製造にも手を伸ばしており、恒策も木製の車体を作る仕事を手がけるようになりました。

その後も軍隊からの召集がかかるたびに任務を遂行しながら、召集解除されれば加藤家の仕事を手伝う、といった数年を送った恒策。いつの間にか、工場に出れば即戦力になる存在にまで腕を上げていました。

昭和初期のこの時代、自動車会社が次々に誕生し、日本でもガソリン車の製造が進みはじめていました。戦時体制下ということも相まって、トラックボデーに関わる仕事は山のようにあったのです。

一方で、派兵された中国河北省では銃弾による左もも貫通、右ひざ裂傷と両足を負傷する重体になったこともあります。のちに恒策の所属部隊は、南方の激戦地へ派兵されることになるのですが、召集免除となり、結果として戦争を生き抜くことになります。もしかしたら、両足の負傷による除隊が、恒策の命を救ってくれたのかもしれません。

そんな状況の中、昭和15(1940)年、恒策はその後60年以上寄り添うことになる、ちよと結婚。翌々年には、後に山田車体工業の二代目を継ぐこととなる健雄(たけお)が誕生し、公私ともに充実した日々を送りはじめます。

そしていよいよ終戦の足音が聞こえてくる頃、恒策はひそかにある決意をしていました。恒策の孫にあたる三代目社長・和典(かずのり)は、実際に祖父からこんな話を聞いています。

「この戦争から生きて帰ってくることができたら、自分の工場をもとう……祖父は、そう考えていたようです。兵役中に戦傷を受け、九死に一生を得るという経験をしていたこともあり、大きな決心を固めていたのだと思います」(三代目社長・和典)
昭和20(1945)年、恒策は無事に終戦を迎えるとすぐに、これまで必死に働いてきた加藤家(加藤車体)を辞職。妻・ちよと幼い2人の子どもを連れ、静岡県沼津市三枚橋に土地を借りて小さなバラックを建て、自分の腕一本で生きていく覚悟を決めます。それが以後70年に渡り受け継がれることになる、山田車体工業のはじまりでした。

日本中が戦後復興に湧くなか、技術力を活かして急成長を遂げる

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戦争の傷跡が色濃く残るなか、山田車体工業は順調なすべり出しを切ります。工員もひとり、またひとり……と、次第に増員。県内にもぽつり、ぽつりと車の販売会社ができはじめており、トラックボデーに関わる仕事がどんどん回ってくるようになりました。

「現在では世界に羽ばたいている一流メーカーの販売会社ではあっても、当時は私たちにトラックボデーを依頼してくる会社は、個人のお付き合いに一台、一台の注文を入れての生産であり、作り上げる喜びも大いに味あわせて貰った」(創業者・山田恒策の手記より)
やがて日本中が戦後復興に湧き、活気あふれる時代へと突入。昭和30(1955)年頃になると山田車体工業も仕事量を順調に増やし規模を拡大していきます。そこで恒策は、静岡県沼津市本錦町に新たな自社工場を開設。トラックボデーの品質を高めるための設備投資をはじめます。やがて工員は50名を超え、地元でも一目置かれる存在になっていました。

当時の恒策は、出社しても事務所に立ち寄らず、そのまま工場へ直行。ジャケットが汚れるのも厭わずに、工員とともにボデー作りに汗を流しました。しかし工場が大きくなればなるほど、ものづくりの厳しさと、多くの人をたばねて仕事をする難しさに直面することになります。

「これは自分史に書き残してもよいと決断するほどの、どうしても忘れられない私に対する仕打ちである。とあるボデー工場の工員たちによる私の工場の工員の拉致事件である」(創業者・山田恒策の手記より)
事件は、山田車体工業の経営が順調に回りはじめた頃に起こりました。とある同業他社の工員が、ある朝突然、出社しようとしていた山田車体工業の工員を1ヶ所に拘束。時代の流れもあってか、相手側から「労働組合を作れ」と説得されたというのです。しかも、当社の悪い噂まで風潮して……。

後にわかったことですが、これは恒策の仕事の腕をよく知る他の工場が、急成長する山田車体工業を脅威に思い、弱体化を狙って仕掛けた罠でした。当時、いかに恒策の工場が高い技術を軸とし、イキイキと稼働していたかがよくわかります。結局、そのあとすぐに組合は解散。しかしこの事件は、恒策の胸に強いインパクトを残しました。

「ナイフを振りかざして直接に襲われた経験がないわけでもないが、このときのグサリと胸に突き刺さった傷は考えただけで五十年過ぎた今でも悔しさと痛みが噴き出してくる」(創業者・山田恒策の手記より)
この事件を機に、恒策は経営者として、立場を越えて気持ちよく仕事をしてもらえる環境を整える大切さを痛感します。その後、昭和39(1964)年には、現在の拠点である沼津市松長字改正に移転することになりました。

「堅実に、かつ大胆に」 夫婦が一代で築いた「山田車体工業」の信頼と実績

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戦後の復興期、小さなバラックにて恒策が1人ではじめた個人事業。ごくごく小さな修理工場にすぎなかった山田車体工業は、その後20年の間に、本拠地である静岡県の他、横浜・仙台・水戸にも拠点を持ち、社員100名以上が在籍する中堅企業へと成長しました。

当社にとって1番のお客さまである運送会社のトラック運転手のあいだでは、「山田車体工業の車は疲れない」と評判に。さまざまな方から、お褒めの声をいただけるようになりました。そうしたお客さまからの信頼は大変厚く、お互い代が三代、四代と変わった現在でも、ずっと変わらずお取引させていただいている企業もあります。

1970年代に入ると、いつしか成長した恒策の息子たちがその想いを受け継ぎ、山田車体工業を支える存在になっていきます。そして昭和58(1983)年、恒策は70歳を迎えたのを機に社長を退任。長男の健雄が、二代目社長に就任しました。

時代はバブル期に入り、業界にとっても激動の時代がはじまろうとしていました。会社を取り巻く環境も、その後大きく変わっていくことになります。しかし創業から30年の間に築かれた山田車体工業の基盤は、その後も揺るがずに続いていきました。

こうした当社の成長を支えた背景には、山田恒策の職人魂と技術力……そしてもうひとつ、恒策の妻・ちよの手腕があったのです。

「祖父・恒策は、石橋を叩いただけでは満足できず、さらに注意して歩くような人でした。厳しく、硬く、堅実。まさに職人ですよね。そんな職人気質だった祖父を支えたのが、商売人の家系で育った祖母のちよだったと聞いています。商売上手な祖母は、100名あまりの従業員の労務管理、経理などを一手に引き受け、会社の経営に関わっていました。祖父がトラック製造に力を注ぐことができたのは、事務所を切り盛りした祖母の功績が大きかったと思います」(三代目社長・和典)
まさに、夫婦ふたり、二人三脚で歩んだ創業期。

職人気質でトラックボデーの品質に徹底してこだわり、質の高い製品を提供し続けた初代社長・恒策と、起業家精神を持ち、会社の拡大と環境整備に挑んだ妻のちよ……堅実に、かつ大胆に。ふたりが試行錯誤しながら培った考え方や価値観、そして経営方針は、その後、二代、三代とつづく「山田車体工業」に深く根づいていくことになったのです。

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