高い技術力を活かした、新たな主力製品の登場――トラックと共に歩んだ三代記

2016年、創業70年を迎える山田車体工業株式会社(以下、山田車体工業)は、日本における自動車製造の黎明期から、質の高いトラックボデーの開発・製造に取り組んできました。創業者・恒策からバトンを受け継いだのは二代目社長・山田健雄。葛藤と闘い続けたその経営者人生が、当社の基盤を確かなものにしました。
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高度経済成長の終焉、バブル景気、そして平成へ――新たな時代の幕開け

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若き日の山田健雄
三代目・現社長 山田和典「二代目を継いだ父(健雄)と、創業者である祖父(恒策)は、性格的によく似ていたと思います。ふたりとも職人気質が強く、堅実な経営を好みました。特に父は、祖父から受け継いだ会社を守らなければいけない、という強い使命感を持っていたようです」
恒策の長男である山田健雄(やまだ・たけお 1942-2003)が、社長に就任したのは昭和58(1983)年。健雄が41歳、恒策が70歳になる年のことです。

ときはバブル景気突入前夜。1950年代から続いた戦後の高度経済成長期によって、日本は世界でも類を見ないほど急激なスピードで発展を遂げていました。山田車体工業もこの頃にはすでに全国4ヶ所の拠点を持っており、変わらず堅調な経営を続けていました。

そんななか、すでに大学生の頃から工場の仕事を手伝っていた健雄が社長に就任したのは、ごく自然な流れでした。

三代目社長・和典「父(健雄)は夜間学校に通っていたため、昼間は工場で働いて、夜になると学校へ行く……というハードな生活だったそうです。自然と祖父の会社を継ぎたいと考えていたようで、他の仕事をやりたかったという話は聞いたことがありませんね」
山田車体工業を経営する父と、創業者である祖父。幼い頃からふたりの姿を見て育った三代目社長の和典はこう振り返ります。

三代目社長・和典「創業から山田車体工業の礎を築いた祖父と祖母……父にとってふたりは実の親なので、いくら祖父が一線を退いたといっても、さまざまな葛藤や、やりにくさなども多少はあったと思います。でも父は、人として、経営者として、非常に祖父を尊敬していました。息子である私たちにも、自分自身のことより祖父の昔話をしてくれたのをよく覚えています」
堅実に築かれた会社の基盤、技術とノウハウを持つ大勢の社員、そしてお客さまからの信頼と期待――。あらゆるものを受け継いで、二代目社長・山田健雄のもと、当社は新たなスタートを切ったのです。

会社を代表する主力製品、オリジナルの「フラップボデー」の誕生

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主力のオリジナル製品「フラップボデー」
1960〜80年代にかけて、自動車やトラックも大量生産の時代を迎えていました。山田車体工業でも大手メーカーに向けた製品量産の仕事を受けはじめ、その割合はどんどん増加。かなりの売上を占めるようになっていたのです。

しかしどんなに売上があっても、内実は価格競争による薄利多売で、顧客からの要求も多く、採算性はあまりよくないのが実状でした。

そこで健雄はもう一度、山田車体工業の原点を見つめ直します。

三代目社長・和典「祖父の時代から、山田車体工業はオーダーメイドの製品を軸にして、一人ひとりのお客さまと向き合ってきました。その原点に立ち戻り、大量生産からオーダーメイドへ、改めて方向転換をしたんです。例え一時的にお客さまが離れることになったとしても、品質のよい製品を求めるお客さまが必ずいるはずだと、父は考えていたそうです」
そこで考え抜いた末に作り上げたのが、今でも当社の主力であるオリジナル製品「フラップボデー」でした。

フラップボデーとは、トラックのルーフや両サイドが大きく開閉するタイプの車体です。健雄はスタッフとともに、装置、回路そして電気の知識などをイチから勉強しながら、すべて自社内でオリジナル製品の開発を進めていきました。

三代目社長・和典「会社によっては製造の多くをアウトソーシングでまかない、自社では組立しかしないところもあります。でも祖父や父は、基本的に1から10まですべてを自社で製造することにこだわっていました。だからこそ、しっかりとした技術を代々受け継ぐことができたといえるでしょう。当社では今でも、たとえアウトソーシングすることがあっても、自社でできないことを他社にお願いすることは一切ありません」
こうして誕生した、当社オリジナルのフラップボデー。その生産量は順調に推移し、1986年に累計1,000台、1992年に5,000台、1999年には10,000台を達成。大量生産の製品に変わり、当社の主力商品として売上の60~70%を占めるようになりました。

その一方で、メーカー向けの量産ボデーは1988年に生産を終了。以後、山田車体工業では独自の技術力を活かした製品展開を基本としていくことになります。

“堅実経営”を実践するために必要な「3つの教え」とは

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バブルの活況、そしてオリジナルのフラップボデーの開発によって、山田車体工業はさらに大きな成長を遂げることができました。健雄が社長に就任してから10年の間に、会社は盤石の体制を築き上げたのです。

社員数も増加し、ピーク時には400名に達したことも……(※1988年当時)。そんななか、会社としての一体感を醸成するため、健雄は社内コミュニケーションにも力を入れていました。

三代目社長・和典「父はよく社員と食事に行ったり、お酒を飲みに行ったりしてコミュニケーションを取っていました。当時はバーベキューやソフトボール大会など、社内の行事も多かったと聞いています。人数は増えましたが、父は社員のことをよく見ていたと思います」
その後、時代は「失われた20年」と呼ばれる平成不況に入っていきます。しかしそんな状況の中でも、当社の基盤が大きく揺らぐことはありませんでした。それを支えたのは、創業者・恒策から二代目・健雄へと受け継がれていた“堅実さ”にほかなりません。

そしてその方針は、三代目社長・和典にも受け継がれました。

三代目社長・和典「まずなによりも、『会社を存続すること』が大前提です。そのために、できるだけ借金はせずに自己資金で経営すること。技術のある工員を育て、オーダーメイドの生産に応えられる少数精鋭のチームを作ること。必要以上の拡大路線をとらず、質の高い会社をつくること……この3つの教えは、父(健雄)から聞かされたものです」
実際、山田車体工業は初代・恒策の時代に一気に社員や拠点を増やしたものの、その後、それ以上の規模拡大には着手していません。それは、二代目・健雄がこの「3つの教え」を徹底して守り抜いたためだといえます。そしてこの“堅実経営”は、後に危機に直面した当社を、何度も救う大きな要因になりました。

二代目社長・健雄の早すぎる死……その遺志は、確かに次の世代へ

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しかし会社の経営が順調に続くなか、思わぬできごとが二代目社長・健雄を襲います。体調を崩し、大きな手術を受けることになったのです。社長就任からちょうど10年目の、1993年のことでした。健雄はそこから、入退院を繰り返す日々を送るようになります。

三代目社長・和典「父が倒れた当時、私はまだ大学生でした。社長が不在がちとなり、会社の方は、幹部をはじめとした社員が支えてくれました。父の体調があまり思わしくなかったため、母からは『早い段階で三代目社長を継いでもらうことになるかも』と聞かされていましたね」
その後、大学を卒業した和典は、父のすすめで東京の会社で2年間働いた後、25歳で山田車体工業に入社しています。

そんな状況に追い打ちをかけるように、会社や業界を取り巻く外部環境も大きく変わりはじめていました。まず1990年代前半、大型車両の重量規制緩和が行なわれたことによって、トラックの大型化が一気に進みました。しかし90年代後半になるとそのミニバブルが終わりを迎え、反動で市場が冷え込んでしまったのです。

会社の方針である「堅実経営」を徹底するためには、撤退や縮小などの経営判断を行なわなければならないこともあります。実際に当社は1999年、横浜工場の閉鎖を余儀なくされました。

しかし、この工場閉鎖に最後まで強固に反対していたのが、健雄でした。

三代目社長・和典「父は、祖父から受け継いだこの会社を、絶対に守り抜くという強い意志を持っていました。自分の代で後退するようなことがあってはならない……と考えていたのだと思います。結局、最後はすでに一線を退いていた創業者の祖父(恒策)まで加わって、何とか父を説得したんです」
創業者である恒策を敬愛し、山田車体工業を、自分たちの仕事を誇りに思い、社員たちを大切に思っていた健雄。しかしその後も体調が回復することは叶わず、2003年、61年の生涯を静かに閉じました。それは、あまりにも早すぎる死でした。

しかしその強い想いは、確かに三代目・現社長である山田和典へと受け継がれていくことになります。

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