幾度もの危機を乗り越え、これからの未来を見据えて――トラックと共に歩んだ三代記

2016年、創業70年を迎える山田車体工業株式会社(以下、山田車体工業)は、日本における自動車製造の黎明期から、質の高いトラックボデーの開発・製造に取り組んできた会社です。小さなバラックで事業をはじめて以来、初代、二代目がその歴史の中で培ってきた想いは、三代目・和典へと受け継がれています。
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祖父、そして父から受け継いだバトン――三代目社長の就任

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若き日の山田和典(三代目社長)
創業者・恒策と、二代目社長・健雄。そのふたりからバトンを受け継いだのは、健雄の長男である山田和典(やまだ・かずのり)です。父の早逝により、和典が三代目社長に就任したのは2003年。その当時、和典はまだ30歳になったばかりでした。

しかし和典本人は、かなり早い段階で会社を継ぐことを意識していました。

「いつかは自分が会社を継ぐものだと思っていましたね。はじめて会社でアルバイトをしたのは、中学生の夏休みです。それ以前にも、父はときおり工場に私たち家族を呼んでは、いろいろな製品を見せてくれて。そうした経験が、自分の中ではとても大きかったんでしょうね。中学校時代の文集には、すでに『卒業したら山田車体工業に入社する』と書いていました」(和典)
大学を卒業した後、2年間の修行期間を経て、和典は山田車体工業へ正式に入社。当時、すでに体調を崩していた父・健雄を、弟の善雄(現・取締役企画室長)とともに支えました。

「創業者・恒策から受け継いだ会社を守り続ける」という強い意志を持っていた健雄と同様、和典もある使命感を抱いていました。

「私の使命はこの会社を受け継いで、しっかり次世代へと手渡していくことだと思っているんです。祖父や父の想いや実績はもちろん、今この会社が立ち止まってしまったら、失われてしまうものがあまりにも大きいですよね。
社員やその家族、かつての社員たち、信頼していただいているお客さま、そして当社のトラックを愛用してくれている運転手のみなさん……。山田車体工業に関わりのある大勢の人たちの気持ちに応えるためにも、会社を維持していかなければならない。そう強く感じています」(和典)

リーマンショックの直撃……過去最大の危機を救ったもの

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しかし和典が社長に就任した前後から、業界全体がにわかに慌ただしくなりはじめました。

2000年代に入り、東京都で「ディーゼル車走行規制」が制定されたのです。これは、都が条例で定める粒子状物質の排出基準を満たさないディーゼル車について、その走行(都内)を禁止したもの。技術的な性能以上に、環境への配慮が求められる時代の到来でした。

この規制をきっかけに、当社には新基準に合わせた新しいトラックボデーの注文が殺到。毎日、猛烈な忙しさが続くことになります。

しかし、急激な受注増には必ず反動があるものです。それは、このときも例外ではありませんでした。2007年を境に生産台数は落ち込みはじめ、さらにその直後、リーマンショックが発生し、世界経済を直撃したのです。その影響は当然、当社にも波のように押し寄せました。

「当時、すでにトラックの大型化が進んでおり、製造数自体も以前と比べると減っていたんです。そこにリーマンショックが起こったので、この業界も今までのように立ち行かなくなり、いくつもの同業者が廃業に追い込まれていきました」(和典)
このリーマンショックの影響は大きく、苦しい経営状況は以後何年にもわたって続きました。このままの状況が続けば、会社の存続に影響が出てしまうかもしれない……。和典は就任早々、最大の危機に直面することになったのです。

しかしこのとき、その危機を救ったのは、創業者・恒策、そして二代目社長・健雄が徹底して行なってきた「堅実経営」の成果でした。

「苦しい時期を越えることができたのは、祖父と父が堅実な経営を続けてくれたおかげです。厳しい時代も自己資金による経営ができたため、銀行との交渉などに頭を悩ませたり、労力を使ったりすることなく、自社の体制を整えることに専念できたんです」(和典)
若くして社長となった和典にとっては非常に厳しいスタートとなりましたが、先代から受け継いだ教えと、これまでの経営成果を活かし、山田車体工業はさらに次のステージへと向かうことになります。

自分たちの仕事を、必要としてくれる人たちのために

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工場に掲げられている看板「一人一人の技術と意識が作る良い製品」
リーマンショックで市場が冷えきったタイミングで、和典は大きな勝負に出ました。大規模な設備投資に踏み切ったのです。

生産台数が落ち込んだため、徹底した経費削減を行い、工場の稼働率も大幅に減らさざるを得なかったこの時期。それは、一方でさまざまな現実の痛みを抱えながらも、未来を見据えた決断でした。

「そのときどんなに市場が冷え込んでいたとしても、私たちの仕事は、必ずまた必要とされるという自負がありました。また、古くなって非効率な部分が増えつつあった工場を、改善する必要性も感じていたんです。それならば工場の稼働率が落ちている今、未来のためにできることをやろうと思いました」(和典)
その後、2012年になるとようやく景気は回復の兆しを見せはじめ、徐々にトラック製造の注文も増加。会社の経営も落ち着きを取り戻しました。しかしこの時点で、トラックボデーを扱う業者の数は大幅に減っていたのです。お客さまから舞い込むトラック製造のニーズに対し、山田車体工業は新しい設備の工場をフル稼働して応えていきました。

「絶対に自分たちの仕事を必要としてくれる人がいる」――和典は、それを実際に自分の目で見る瞬間、大きな喜びを感じるといいます。

「以前、家族で東南アジアに旅行に行ったときのことでした。本当に何気なく道路を見た瞬間に、私の目の前を老朽化したトラックが走っていったんですよね。そのトラックにうちのステッカーが貼ってあり、ボデーのカラーリングから、当社のお客さんのトラックだとすぐにわかったんです。

きっと日本で十数年にわたって使われ、その後中古車両として東南アジアに輸出されたものでしょう。そんなに古くなっても、誰かに使っていただいているなんて、すごくありがたいことだと思いました。自分たちの日々の積み重ねの結果が、まさにそこにある……。それこそがものづくりのやりがいであり、この仕事の喜びなんですよね」(和典)

創業70周年を迎え、さらに先の未来を見据えて

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厳しい時期を越えて、2016年、当社は創業70周年を迎えました。しかし、ここで立ち止まるわけにはいきません。和典が見据えているのは、80年、90年、100年……と続いていく、これから先の未来です。

2016年7月には、神奈川県愛川町に神奈川工場を新設。ここはトラックボデーの修理を主体とした拠点です。

「業界では同業者が減ってしまったため、現状、生産困難になっている製品なども多々あるんです。そのため、今後は私たちがトラックボデーの分野を幅広くカバーし、さまざまなニーズの受け皿になることを考えています。お客さまからの細かな要望に応えることで、ずっとトラックボデーを作り続けていたい。山田車体工業を、不滅の存在にしたいんです」(和典)
こうしたさまざまな意思決定をするとき、和典の脳裏には、今でも亡き祖父と父の顔がふと浮かぶことがあるそうです。山田車体工業が三代にわたってずっと守り続けてきた「堅実経営」。その教えはいつしか、当社とは切っても切り離せないものになっていました。

「これまでの70年間、いい時代も悪い時代もありました。でもどんなときも、私たちは“堅実経営”という方針のもと、弟の善雄、そして社員たちと力を合わせて、真面目に自分たちの仕事に取り組んできました。ずっと自分たちの手で、ものづくりをやり続けてきたんです。そうして技術力を磨き、製品の品質を高めてきたことが、お客さまからの厚い信頼につながっているのだと思います。私はそのことを誇りに思っていますし、社員にもそうした自負を持ってほしいですね」(和典)
70年前、創業者・山田恒策がたったひとりで興し、二代目・健雄が基盤を強固にして、今、三代目・和典の手に受け継がれた山田車体工業株式会社。長年にわたって会社を支えてきたこのDNAは、この先どんなに時代が変わろうとも揺らぐことはないでしょう。

「わが社の目的は、お客様の要望に応えて、確かな品質の使いやすい製品を生産し、地域社会、物流社会に貢献することである」――。私たち山田車体工業株式会社は、これからもトラックボデー業界を牽引する存在として技術力を磨き、品質を高めて「堅実経営」を続けていきます。

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